fruits of destiny

※一部原作にない、独自設定を使用しております。
※上記の理由により、直接的ではないですがカニバリズム的要素を含みます。

















 自分が特別不幸だと思ったことはなかった。僕と同じような境遇の子どもたちはぐるりと見渡すだけでも両手に余るほどだったし、施設ではそれなりの管理が行き届いていて、少なくとも前にいたところよりもましと思えた。
 僕はここで育てられ、教育を受け、どこか適当なところに就職させられ、いずれ徴兵される。あるいは、士官学校に入って軍人になる。夢多い未来ではなかったけれど、未来がないよりましだった。父さんが死んでしまってから、随分と多くを望むことを忘れていた。
 だから自分があのエル・ファシルの英雄の養子になるんだと知らされて、本当にびっくりした。僕なんかでいいのだろうか、という気持ちと、すごく幸運なくじを引き当てたような気持ちで、胸の骨が軋むほどどきどきした。
 自分より大きなトランクと、こっそり飼っていた子猫を連れて、あのフラットの前に立ったとき、もしかしたらこれは何かの手違いで、追い返されてしまうんじゃないかと不安になった。一度目にベルを押しても誰も出なかったから、いっそう心細い気持ちになった。
(ほら、やっぱり間違いだったんだ)
 喉がカラカラになりながら、もう一度ベルを押した。バタバタと足音が聞こえて、現れたのは、パジャマ姿で歯ブラシをくわえたままの、全く英雄然としていない“エル・ファシルの英雄”だった。
 ……――何度でも、思い出せる。そのあと、「キャゼルヌ准将からのご紹介で」と言ってヤン元帥――当時は大佐――はようやく合点がいったような様子だったこと。部屋があんまり汚れているから、大慌てで掃除をしたこと。終わってから、もしかして余計なことをしたかもしれないと思っていると、大佐は怒ったり不満がるよりむしろぽかんとしていたこと。父さんと同じ紅茶党だと聞いていたからはりきって紅茶を入れたら、すごく満足してくださったこと――……。
「忘れちゃ駄目よ、ユリアン。あなたとフレデリカさんだけは絶対に忘れちゃ駄目なのよ。私も母さんのこと、忘れないもの」
 隣に座っているカリンが僕の手を握った。その指の感じはとても華奢で、戦闘機乗りのものとは思えない。
 僕らは白い布の敷かれたテーブルを囲んでいた。僕とカリン、フレデリカさん、主だった幕僚の方々。フレデリカさんだけは膝の上に乗るくらいの白い円筒状のものを大事に抱えている。これが、今“遺体”と呼べる総て――わざと有機物として分解させずに遺族のために遺した“モノ”なのだ。そしてそれ以外は、すべて分解され、再利用される。生体素材の材料として、そして――食料として。
「始めましょう」
 キャゼルヌ夫人が、皆にひとつづつ小さな果実のようなものを配っていった。それは林檎のミニチュアに見える。組成も大きくは違わない。
 なぜ林檎なのか。それは古代の宗教で重視されていたからという話も聞いたことがあるが、本当のことは誰も知らない。ただその紅くつるんとした球体を見ていると、胸の奥が熱いもので満ちていくようだった。
「貴方が私達の血となり肉となり心を形造り貴方の記憶を留めおけるように」
 そして各々が配られた果実を手に取り、歯を立てた。がりり、と。
(合格だ)
 最初にうちに来た日、ヤン元帥のために淹れた紅茶を飲んで、ヤン元帥は笑ってそう言った。穏やかで、温かいその笑顔を見て、僕は本当に嬉しかった。父さんが亡くなって以来、「ここにいること」を初めて誰かに肯定してもらえたような気がした。
 咀嚼し細かくなっていくその欠片を感じながら、思い出すのはそんなことばかりで、紛れもなく林檎の味のはずだったのに、ほどんど涙の味しかしなかった。
(貴方が僕達の血となり肉となり心を形造り貴方の記憶を留めおけるように)
 いつしか語れられるようになった、小さな祈りの言葉を口の中でつぶやこうとしたとき、頬を歯で傷つけてしまったらしく、甘いような鉄の味がいっぱいに広がった。吐きそうになるのをこらえて、飲み込んだ。震えが止まらなかった。
 林檎の味は本当は嘘なのだ。これはヤン元帥だった“モノ”なのだ。あの一面の血、冷たい身体、僕が無能だったばかりに世界から失われてしまったモノ。
 それでも、掌の上の果実を食べることを止めることはできなかった。涙と血の味と林檎の味が混じりあい、何度喉が飲み込むことを拒絶しても、溢れるさらさらした唾液と共にそれを胃の中へ送り込んだ。あと一口――というところになって、カリンに腕を音が立つほどの力で握られた。
「そんな風に食べては、いけないわ」
 僕はよほど酷い顔をしていたのだろう。カリンの表情からはそんな深刻さがうかがえた。ふいに、そこに(ユリアン、ユリアン)と僕をたしなめるヤン元帥の姿が重なって、肩に憑いていたものがすとんと落ちた。
「ありがとう、カリン」
 笑ったつもりだけれど、ぎごちなかったかもしれない。カリンはさっと目をそらし、「あなたが心配だったんじゃなくて、そんな食べ方じゃ、ヤン元帥に失礼だと思ったからよ」とほんの少しだけ耳の端を赤くして言った。
 このささやかな物体が一時的にでも僕の一部となるように、心は記憶から形作られる。けれどそれは一時のことじゃない。そしてなにをもって心を組み上げるかは、自分の選択にかかっている。ならば僕は、あの日のあの人の顔を決して忘れない。僕に「ここにいていいよ」と言ってくれたあの笑顔を。
 僕は最後の一欠片を口にいれた。




130321
ゆかたろさんへ、いただいたご本のお礼として
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