まるでこれから地上戦に赴くような悲壮な面持ちで、ひよこのアップリケがかわいらしいたまご色のエプロンを身につけ、フレデリカはキッチンに立った。頭のなかにはほぼ完璧な形でケーキのレシピが記憶されている。大丈夫よ、と自分に呼びかけ、炭素結晶の斧を握るようにボールと泡立て器を手にとった。
記憶力は群を抜き、機械に強く、事務処理をほぼ完璧にこなし、有事以外はキャゼルヌいわく「娘のぬいぐるみのほうがまだものの役に立つ」上官を補佐するのにフレデリカほど有能な軍人もいないだろう。しかし天は才能の大売出しをせず、バレンタインに手作りのチョコを作って味見もとい毒見役のユリアンをしばらくトイレに閉じ込めた記憶も新しい。
そのときの経験を踏まえ、フレデリカはケーキのレシピを丸暗記し、監修役をキャゼルヌ夫人に頼み、幾度も実践を重ねて本番に挑むという周到ぶりで事に臨むことにしたのだ。
一度目に出来上がったのは名状しがたい有機物の塊のようなものであった。さすがにオルタンスも苦笑を隠せずにいた。
「あのね、フレデリカさん。料理は機械の操作とは違うのよ。作ってるものをみながら調節しなきゃ」
そう言いながらオルタンスが手を貸し、二度目に出来上がったのは見事なショートケーキだった、のだが、実際はオルタンスが「手を貸す」どころか八割方彼女が作ったものだった。フレデリカは苦い涙を飲み込んだ。
(ああ、フレデリカ、こんなことではいけないわ!せっかくの閣下の誕生日なんですもの、ケーキの一つも作れないでどうするの!)
もちろんオルタンスにも家の都合があるので、毎回習うというわけにもいかない。フレデリカは仕事が終わるとすぐに自室のキッチンにこもって練習を重ねた。あんまりさっといなくなってしまうので、さすがにヤンもなにかあるぞと気づいたのだが、「デートかな」などと間抜けも甚だしいことを呟くものだから、ユリアンに数度ブランデーなしの薄い紅茶を出されるハメになった。
フレデリカの孤独な行軍は続いた。あるときは生焼けのケーキにバターのようなクリームが乗り、またあるときはカチカチのケーキにどろどろのクリームがかかるだけ。それでも炭と化す回数は減ってきたことに、彼女は確かな手応えを感じていた。
そしてとうとう四月も三日になった。ヤンの誕生日を明日に控え、フレデリカは奮発して人工培養ものではない苺を買った。このみずみずしい苺に恥じないように、ヤンが喜んでくれるように――と強く願い、最後の戦いに挑んだのだが、力み過ぎたのが仇となった。
スポンジケーキはスポンジというよりタワシに近い代物になってしまった。しかしもはや作りなおす時間はない。捨ててしまおうか、とも思ったが、それでもやはり食べてもらいたいという気持ちが勝る。自分勝手は承知だが、一口でもいいからと思わずにはいられない。
四月四日、恐る恐る完成したケーキを手作りだといってヤンに差し出した。食事時、紅茶もちょうど入ったところだったので、ヤンは喜んで手にとった。
フレデリカは頬を強ばらせ、その様子をつぶさに観察する。カリカリ。もりもり。ごくん。これでヤンが少しでも顔をしかめたりしたら、すぐに謝ってケーキを捨ててしまおうと思った。
「あれ、ケーキにしては固いんだけど、意外といけるね、これ」
ぽかん、とするフレデリカを尻目に、ヤンはもくもくとケーキを頬張る。
「うん。クッキーみたいだったけど、けっこうおいしかったよ」
満足気に紅茶を飲んで、ヤンは笑った。「いやあ、でも、副官から手作りケーキをもらうなんて、公私混同と言われないかなあ」「三十なんて過ぎるもんじゃなかったと思ってたけど、いいこともあるもんだなあ」などとブツブツ言いながら。それが照れ隠しであることは明らかなのだが、フレデリカも大概そういった方面の機微に鈍いので気づかない。
ああ、よかった。そう思うと、足の力が抜けてしまった。急にへたりこんでしまったフレデリカを見て、ヤンは慌てて駆け寄る。
「大丈夫かい?貧血かな」
「いいえ、ご心配には及びませんわ、閣下……」
どうも連日の疲れがどっと出てしまったらしい。早く立ち上がって医務室に行こう――と思うけれど力が入らない。と、肩に手が触れる。
「立てるかい?」
間近で見る優しい想い人の顔が、油断していた脳を視覚から直撃した。全身の血液が沸騰して足の先から脳天まで駆け巡り、勢いにまかせるまま立ち上がり「失礼しました」と敬礼し、ピューッと音を立てて部屋を退出してしまった。その後フレデリカは医務室まで辿り着いたはいいものの、すっかり目を回してしまい、半日ベッドから起き上がれなかった。
残されたヤンはというと、いったいなにが起こったのかわからず、頭を掻き掻き部屋をうろつき、どうしようもないのでデスクに戻り、所在無さげにペンをいじりまわしていた。
――それらの一連の様子を物陰から伺っていたのは、オルタンスの夫であるキャゼルヌと、前回の毒見役であったユリアンである。
「万事めでたし、でいいんでしょうか、これは」
戸惑い気味にユリアンが言うと、キャゼルヌはうーむと考えこむ。
「まあ、バッドエンドではないだろう。万事ではないがな。あいつは優秀な副官なしで午後の政務に励まなければならないわけだから」
「それは好ましからざる事態ですね」
「全く、あいつは事務方の身にもなってみろ」
「でも提督も鈍いですね。もう少し気を使ってさしあげればいいのに」
「あいつにそれができたら歴史は変わっていることだろう。やっぱり俺がなんとかしなきゃな……」
などと勝手なことを言われているとはつゆ知らず、ヤンはペン遊びにも飽きて、うとうとし始めた。つかの間の午睡の夢では、エプロン姿のフレデリカが、ニコニコ笑いながら巨大なケーキの要塞を建てていたのであった。
130404
ヤンの誕生日なので