グッド・バイ

※一部原作にない、あるキャラクターの子供たちについての描写を織り込んであります。


















 柔らかい午後の日差しの中で、車椅子に乗った一人の老婦人が佇んでいる。彼女はとても老いてはいたが、どこか所帯疲れを思わせない瑞々しい美しさを持っていた。だから、特に若い看護師は、彼女がオールドミスではなく未亡人であることになかなか気づかなかった。彼らは年かさの医師や看護師や患者達に言われて、ようやく目の前の老婦人が、歴史(彼らにとってはもはや“歴史”なのだ)に名前を残した人物であり、ある偉大な英雄の妻であったことを知るのだった。それ以外では、彼女は決して自分から進んでは彼女が何者であるか明かそうとはしなかった。
 彼女を訪ねてくる者は、かなり数は減ったが、それでも皆無ではなかった。彼らに“民主主義の母”などと大仰な言葉で呼ばれるたび、彼女は困ったように微笑んで言った。「私はあの人が蒔いた種が枯れないように、一生懸命雨や風を凌いできただけ」と。そしてある時期から、もう一言それに付け加えられるようになった。「でも、もうきっと大丈夫ね。この木はもう簡単には倒れはしないわ」と、一抹の寂しさを含んだ声で。その言葉を聞くたび、彼女にとっての子供はまさに民主主義そのものだったのだと、目に涙を溜めて語る、かつて不正規部隊に所属していたのだという元軍医がいた。しかし彼ももはや亡い。
 彼女に血の繋がった家族はなかったが、亜麻色の髪とスミレ色の目をした、中年より少し若いくらいの女性が、もっぱら彼女の身の回りの世話をしていた。その女性は、彼女は自分の祖母のようなものだと言って慕っていた。その女性の子供たちも、よく母親についてきては彼女の周りではしゃぎまわっていた。彼女はそれを、いつも眩しそうに見つめていた。
「ばあば、いつも座ってるね」「立たないの?」「ばあばはもう立てないのよ」「変なの」「変!」「嫌だ、申し訳ありませんわ、口の悪い子たちで」「あら、こんなのは口の悪いうちには入らないわ。貴女にあの人と周りの方たちがしていた会話を聞かせたら、卒倒するかもしれないわね」「ええ、よく父から聞かせてもらいました」「お父様はお元気?」「父は相変わらずで……。仕事の手が空いたらお会いしたいと、いつも言っていますわ」「嬉しいわ。でも無理しては駄目よと伝えておいて」「いつものことだけれど、少しおかしいですわ。貴女の前では父もいつまでも15の頃のままなんですのね」「それはそうよ。貴女のお父様は、あの人の子供だもの……」
 そして彼女は、いつもどこか遠いところに目をやる。空の上すら人間が行き交う場所になって久しく、彼女もまたそこで多くの時間を過ごしていたのだが、彼女が見つめるその場所はあまりに遠く、とりとめがなかった。彼女に付きそう女性は、彼女がなにを見ているのか知識としては知っていたが、彼女や自身の父親ほどには深い実感をもって見ることはできなかった。
 空がやがて白さを増し、赤みが差してくる頃になると、その女性は子供たちを連れて家に帰るのだった。
「またね、ばあば」「ええ、またね」「ばあば、今度お菓子ちょうだい」「チョコレートでいいかしら」「もう、この子はすぐ人にねだるんだから」「お返しもあげるね」「ええ、ありがとう」「それじゃあ、お元気で。次は弟たちも連れてきますわ。母も都合が合えば」「それは楽しみだわ。貴女も、お元気で」
 それから彼女は看護師と共に部屋に戻り、ベッドの上で食事を待つのだった。オートマチックに運ばれてくるのではなく、人間の介護士が来てくれる分、彼女は恵まれていた。
 しかしその日はいつまで待っても食事が来なかった。そのうえ震えるほどに寒く、あたりは暗かった。停電かしら、と彼女は考えた。人を呼ばなければ、と思い、自由の効かない身体を懸命に起こそうとしたとき、肩に温かい手が置かれた。誰なの、と身体を強ばらせたとき、半世紀以上の記憶を一息に飛び越える声がした。
「ごめん、遅くなって」
 彼女は吐息と共に、声にならない声を漏らした。
 ヘイゼルの両目が大きく見開かれ、口は半ば開いたまま動かなくなった。
 彼は、「うーん」「その……」などと呟きながら、決まり悪そうに頭を掻いた。少し照れているようにも見えたし、申し訳なさそうにしているようにも見えた。深緑の上着も、血の染みのないスカーフも、ベージュのズボンも、おさまりの悪い黒髪も、とても軍人には見えない穏やかな顔つきも、知性に満ちた黒い目も、親しみを感じさせる優しい声も、彼――ヤン・ウェンリーのなにもかも、なにもかもが彼女――フレデリカ・グリーンヒル・ヤンの記憶のままだった。
 ようやくの思いで、フレデリカは言葉を絞り出した。
「……私、貴方にまた会うことがあったら、一言言ってやりたいと思っていたことが山ほどあったんですの」
 涙が、フレデリカの頬を伝った。
「でも、もう、忘れてしまいましたわ……なにもかも」
「君が忘れることがあるなんて、珍しいね……」
 ヤンは不器用な仕草で、フレデリカの手を握った。とても温かだった。そのときフレデリカは、骨と筋ばかり浮くようになっていた自分の手が、象牙を磨いたように滑らかになっているのに気づいた。
「ずっと一人にさせて、ごめん」
「私、いつからかこの日のために生きているような気がしていたんです……いつか来てくださる貴方の目を、恥じることなく見つめられるように」
 ヤンは微笑んだ。限りない優しさをもって。
「ありがとう、フレデリカ。本当に、ありがとう」
 ありがとう、ありがとう、と、何度も繰り返して、ヤンはフレデリカを抱きしめた。フレデリカはその肩にそっと腕をまわした。世界が黄金色に輝いているようにも思えた。生命の樹がゆらゆらと揺らめき、細胞の一つ一つまで温かいものが満たしていった。満たされていた。己の全ては成就したのだと、フレデリカは確信し、そして。


 《警告》を知らされた医師たちが部屋に入ったとき、すでにあらゆる計器は平らな光の筋を描き続けるだけになっていた。日が落ちる寸前の薄い闇の中、心電図のグリーン、血圧・脈拍のレッド、脳波計のイエロー、それらの色合いが淡い色彩となって、彼女の、微笑んだまま二度と目を開けることのない顔を、皺の刻まれた頬を伝う涙を照らしていた。
 そしてフレデリカ・グリーンヒル・ヤンの命の証は宇宙から消え去った。




20120924   
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