音すら温度をなくしたような部屋にかすかに死臭の混じった血の匂いが満ちている。奥一面の窓から差し込むのは、黄昏の、今にも消えかけそうな、紫がかって力をなくした橙の光。それを背に座る男。逆光でも一目にわかる、屍蝋のような肌の色。
何度回想した光景だろう。何度夢に見た光景だろう。ミッターマイヤーは呻く。同じ悲劇は一度しか起こり得ないが、あらゆる手段を使ってそれは繰り返される。ソリビジョン、ラジオ、ホログラム、そして記憶。記憶のたちの悪いのは、それに伴う感情までも否応なく想起させてくるところだ。
吐き気と目眩をこらえて、座る男に近づく。机の上には酒瓶と、ふたつのグラスが置かれているはずだ。共に最期の酒を酌み交わせなかったことを、どれほど後悔しても足りぬというのに、こうして記憶を再体験させられるのは、今まで被った苦痛の全てを足してもなお足りない。俺に祈る神がいれば――とらしくもない考えが巡る。と、そのとき、机の上にあるべきものが置かれていないことに気づいた。
「ロイエンタール……?」
それは皮肉にもまさしく祈りのようなつぶやきだった。
「……遅いぞ、ミッターマイヤー。疾風ウォルフの名がすたるじゃないか」
弱々しいが、確かにいつもの皮肉げな笑みを浮かべて、ロイエンタールはそう言った。
銃口を突きつけられようが、敵艦と至近距離で撃ち合おうが、びくともしなかった心臓が、がくんと調子を外して脈打ちだした。ようやく絞り出したのは、「生きて……いるのか……?」という、我ながら間抜けがすぎる言葉だった。
ロイエンタールはふっと息だけで笑い、「かろうじてな」と答えた。安堵と、喜びと、それに勝る苦痛がミッターマイヤーの精神を塗りつぶした。これが現実ならば。本当にこれが起こったことならば。これが夢でないならば、どんなにいいか。しかしこれは夢か、フラッシュバックか、もっとひどくて妄想なのだ。現実には、なり得ない。
それでも、言葉は堰を切って溢れ出す。
「ロイエンタール、ロイエンタール、遅れてすまなかった。ああ、俺がこんな地位にいなければ、あるいは非合法な手段であっても、卿を救えたのかもしれない。そうしていたら俺はエヴァや卿や多くの人間を失望させたかもしれないが、少なくとも卿を喪うことはなかったはずだ。俺は――」
ロイエンタールはわずかに首を横に振った。
「ミッターマイヤー、俺は卿のそれ以上の言葉を聞きたくない。ウォルフガング・ミッターマイヤーが自らを貶める言葉をな」
ミッターマイヤーは一度苦痛を噛み締めるようにグッと唇を噛んで、それから一呼吸ののちに「病院へ行こう」と言った。これが夢だとわかっていても、可能性があれば本能的にそこに手を伸ばしてしまうのだ。しかしロイエンタールは静かな目をしたまま、黙していた。
「ロイエンタール……卿の言いたいことはわかっているつもりだ。だが……」
「俺は、俺の命の火があとどのくらいで消えるのかを知っている」
それは明白な拒絶だった。俺は夢でもこの男を救えないのか――そう思うと、魂が根から立ち枯れていくようで、いっそこれならば夢でも幻覚でも、とっとと消え失せて欲しいと、切にそう願ったときに、手に触れるものがあった。豪奢な細工が施された小刀の柄だった。
「俺にはもう、この小刀の冷たさもわからん。痛みも、それに伴うすべてのものも。卿の声もじきに聞こえなくなるだろう。姿も闇に消える――その前に、頼みたいことがある」
「俺にできることなら、なんでもしよう。何が望みなんだ、ロイエンタール」
小刀ごととったロイエンタールの手の冷たさは、死者のそれだった。その手を少しでも温めようと、固く握った。
ロイエンタールは手と同じように冷えた声で言った。
「俺の右目を、抉り取ってくれないか」
「……なにを」
耳を疑うミッターマイヤーに、ほそぼそとした、しかし凍り付くような響きを持って言葉は続いた。
「目は神だ。神は弑すものだ。弑られた神は呪いだ。呪いは記憶だ。卿は呪われ続けるのだ、誇り高き我が友、ミッターマイヤー、神を殺せず、記憶を棄てることもできぬ卿は。
だがその呪いは祝福だ。俺からの言祝ぎだ。さあ、俺の意識があるうちに、早く」
薄い青色の、天の最も高い一角を切り取って丸く削りだしたような左目が、何年も土の中で腐ることもなく静かに睡った樹のように艷やかな黒を湛えた右目が、ミッターマイヤーを見つめた。
一瞬の瞑目。
そして刀を鞘から抜き、右の眼窩に突き立てた。皮を破る感覚の後、血と体液とが溢れ、柄はぬるりと滑りだしたが、その力強さでもってぐるりと抉り回し、糸をひく血管と視神経を千切りながら、それを掲げた。ぼんやりとした光の中、それは呪いでも祝福でもなく、ただ臓器のひとつに過ぎなかった。醜悪な、なんの独特性もない、ほとんどの人間に存在しているもの。
声もなく慟哭するミッターマイヤーの姿は、瞳孔の開ききった左目に歪んで映る。ミッターマイヤーは咆哮し、そして我に返った。
手に握っていたのは、小さな人形だった。フェリックスにと、親戚の一人が贈ったものだった。クマのぬいぐるみだったがやけに色が毒々しく、ボタンでできた目は左右の色が違っていた。そして自分は、そのぬいぐるみの片目を引きちぎっていた。垂れ下がるのは神経でも血管でもなく、細い糸だけだった。
妻は階下で食事を作っている。子供たちはそれを待っている。今の奇行を見ていた者は誰もいない――そのことに僅かに安堵しつつ、ミッターマイヤーは身が震え出すのを止められなかった。
ぬいぐるみをダストシュートに投げ込み、その脇で屈みこんで頭を抱えた。すぐ側に狂気という名の底知れぬ淵が横たわっている。甘やかな饐えたような匂いを漂わせて。歪んだ夢想をひらひらと弄んで。
フェリックスの目が両目とも青なのは、幸いだったな――そう思い始めている自分は、あるいはもはやその淵に片足を漬けているのだろうか。
教えてくれ、ロイエンタール。
絞りだすような声は柔らかな狂気の淵に沈み、腐臭にも似た沈黙が返ってくるのみ。
12????