beyond words

 朝は苦手だった。これから仕事をしなければならない――戦地に赴かねばならない朝はもっと苦手だった。ユリアンの紅茶と朝食と、彼の笑顔があるから、同じ国の軍隊と戦うために目を覚まして起きだすのだ。
 朝食のあとはゆっくり紅茶を飲みたいといつも思うのだが、たいていヤンが起きるのが遅いために、ユリアンに急かされて身支度をする羽目になる。
 その日も歩きながらスカーフを直し、司令エリアへと通じるエレベーターに乗り込んだ。そこには先客がいた。
 シェーンコップがエレベーターの壁に背中を預けていた。女性のもとからの出勤だろうということは、花に似た香りがしたから容易に想像できた。しかし情事のあとなど微塵も感じさせず、髪も軍服も完璧に整えている。寝癖を直すのもそこそこというヤンとは大違いだ。
「おはよう、シェーンコップ」
 敬礼が返ってくる。
「おはようございます、閣下。珍しくお早いですな」
「珍しく、は余計だよ。君こそ、今朝もまあ……」
 イゼルローン要塞を出発してからも、シェーンコップから女物の香水の匂いが絶えたことはなかった。そう思って、いや、とヤンは内心で訂正する。シェーンコップは女の匂いをさせて人前に出るような神経の行き届かないことはしないだろうから、きっと錯覚だろう。
 錯覚とわかっているならば、なぜこんなにも気になるのだろうか。何気なく、ヤンはシェーンコップの横顔を見上げた。
 ヤンより二回り太いといってもあまり大げさではないようなたくましい首に、紅色の痣が残っているのが見えた。スカーフで隠そうとか、そういう姑息なことは思い及びもしないらしい。ムライがまた渋い顔をするぞ、と、苦笑いしようとした唇が強張った。
 赤黒い感情が、カッと頭蓋の内側を熱くしている。顔も知らないその女性が、どんな思いでシェーンコップの首にキスをしたのか、シェーンコップがそれにどのように応じたのか、したくもない想像が勝手に湧いてきて、脳をこそげとりたいような不愉快な気持ちになった。
「どうかなさいましたか」
「え、あ、いや」
 シェーンコップの声で、ヤンは我に返った。その瞬間、寄る辺のない不安がじわりと滲みだした。自分が一瞬、まったく正気ではなかった気がしたのだ。
「いや、なんでもない」
 我ながら作り笑いが下手だと思った。シェーンコップが何か言おうと、僅かに唇を開く。声になる前にドアが開き、ヤンは逃げるようにエレベーターを出た。気持ちを落ち着けようと喫茶室に入り、ユリアンのものとは比べ物にならない不味い紅茶を買った。薄っぺらい香りと渋みに、一口飲んでうんざりした。ブランデーが欲しいと、心底思った。
 琥珀色の表面に映る自分の顔を見て、ヤンはぎょっとした。凡庸な造形の目と鼻と口の、目だけが異様に爛々と輝いている。数度瞬きをすると、蜃気楼のように光は消えた。
 ヤンは天井を見上げた。
 呆然としていた時間は、しかしさほど長くはなかった。飲み残した紅茶と紙コップを捨てて、ヤンは早足で会議室へ向かった。途中で、二、三度転びかけた。
 会議室にはすでに幕僚たちが揃っており、ヤンが来るのを待っていた。軽く乱れた息を整え、まずヤンは謝った。
「遅れてすまない」
 美しい副官は微笑した。
「いいえ、閣下。すでに準備は整っていますから、どうぞお席へ」
 席につく瞬間、かすかに意味ありげな笑みを浮かべるシェーンコップとわずかに視線が合って、居心地が悪くなってすぐに逸らした。
 ヤンが着席すると、机の上にホログラムが投影された。
 会議は、これから向かう惑星シャンプールの攻略に関するものだ。この惑星を攻略する意味はすでに説明してある。となると、地上戦に関してはヤンが期待されている独創性を発揮することはまずない。
 ヤンはこの作戦を行うことを決めてすぐに、シェーンコップに最大限の裁量を与えることを決めていた。
「任せてもいいかい」
 一通り作戦行動を確認した後、ヤンはシェーンコップにそう尋ねた。他者を死地へやる者としての、ヤンなりのけじめのつもりだが、有無を言わさず命令することも彼ならば可能なのだ。偽善と言われてもしかたがないと、すこしばかり苦い気分になる。
 そんなヤンの内心など見透かしたように、シェーンコップのグレーがかった瞳が、ヤンを射抜いた。今度は視線を逸らすことなどできなかった。視界いっぱいに、虹彩のうつくしい模様が広がった気さえした。
「了解」
 シェーンコップは立ち上がり、やや芝居がかったしぐさで恭しく敬礼した。ヤンは司令官として頷き返したが、息は止まったままだった。
 この男を、自分は宇宙の塵としてではなく、血を流し腐りゆく屍として死なせるかもしれないということに、叫び出したいような恐怖を覚えた――が、それは一秒と経たないうちに消え失せていた。
 会議が終わり、いつものように指揮卓の上に腰掛けて、初めてその感情を自覚し、また不安が襲ってきた。自分の一部が自分の手を離れて、想像もできない形に育っていっているような不気味さがあった。
 それでも思索に浸かる暇はさほどない。目標の星はすぐそこまで迫っている。それが幸なのか不幸なのかさえ、ヤンにはわからなかった。
 

 惑星シャンプール攻略戦は、予定通り進んでいた。シェーンコップの巧みな戦術が冴え、一週間かかってもおかしくはなかった作戦は三日で大詰めを迎えた。三日目、ヤンは管区司令部ビルへ部隊が突入するという報告を受けた。敵部隊のジャミングのせいで通信は不安定だったが、イゼルローン要塞を陥落させたシェーンコップと彼の部隊のことを、ヤンは信頼していた。
 信頼していたから、その報告は青天の霹靂だった。
 すでに、突入開始から二時間が経過していた。
 砂嵐の向こうに、青ざめた顔の下士官の姿が映っている。
「現状の報告を」
 ヤンが言うと、下士官は震える声で言った。
「我々は管区司令部ビルを占拠し、叛乱部隊の指揮官、マロン大佐は自決なさいました」
 やはりそうか、とヤンは瞑目した。降伏した兵の扱いを指示し、味方部隊の損害報告を、と促した。
「我が隊の損害は軽微です。ですが、敵の自爆攻撃に巻き込まれ、シェーンコップ准将が負傷なさいました。生死は――不明です」
 無数の虫が一斉に飛び立ったようなざわめきが、艦隊に広がった。まさか、あの男に限って。ありえない。声にならない動揺のつぶやきを、いくつも聞いた気がした。
 その中にあって、ヤンは眉一つ動かさなかった。まとまりを失いかけた艦橋を見渡し、再び通信スクリーンに向き直ると、静かな声で言った。
「作戦の目的は達成された。以降は負傷者の救出に全力を尽くすように」
 大声を出したわけではなかった。しかし、誰もがその言葉に全霊で耳を傾けていた。
「……了解」
 通信が切れた。艦橋には、すでに落ち着きが戻っている。魔術師ヤンの揺るがない態度は、それほどの影響力があるのだ。しかし、凍りついたような上官の横顔を、フレデリカは青い顔で見つめていた。ヤンは彼女に「心配ないよ」とすこしだけ笑ってみせたが、フレデリカの顔色はいっそう悪くなっただけだった。
 ほどなくして、トリグラフとの通信が開いた。アッテンボローは気遣わしげな色をいつもの皮肉げな表情に隠して言った。
「あの男が死ぬわけないでしょう。そのうち、地獄の魔女どもを引き連れて戻ってきますよ」
「……そうだな」
 アッテンボローの唇がなにか言いたげに震えたが、すぐに引き結ばれた。
 ヤンはフレデリカとムライに事後処理を指示した。部屋に戻って仮眠でも取りたい――そう思ったとき、地上からの通信が来た。戦闘服に身を包んだリンツが敬礼した。
「すでに負傷者の収容は終了しました。これより帰投します」
「ああ、ご苦労だった……」
「『できるだけ美人の、赤毛に緑か青の瞳の、あまりやせぎすではない看護師を寄越してくれ』」
「は?」
「防御指揮官殿から、閣下への陳情です。では」
 にやりと笑って、リンツからの通信は切れた。どうっと、艦橋で安堵の笑いが起きた。やはり、ワルター・フォン・シェーンコップが死ぬはずはなかった。しかもわざわざ総司令官に看護師の容姿を指定してくるような、いつもの不謹慎な不遜さを保つ余裕があるということだ。ムライが咳払いするのが聞こえたが、彼もまたほっとしているのがよくわかった。
「よかったですわね、閣下」
 フレデリカが微笑んで言った。ヤンはぼんやりと頷いた。
「これでいきなり優秀な防御指揮官を失わずに済む。だけど、帰ってこられなかった兵士もいるんだ……」
 フレデリカの美しい顔が曇り、唇が閉じられた。ヤンの胸に、暗い自己嫌悪の影が落ちる。彼女はヤンを心配して言ったのに、善意を袖にするような物言いをしてしまった。しかし、戦死者が出たことは事実で、今回は少なく済んだけれども、今後の戦いではさらに増えるのもまた事実だ。
 屍の山を積み上げて、血の河を深くして、私はどこへ行こうとしているのだろう。
 そしてこれから積み上がる山の中には、今度こそ、シェーンコップの姿があるかもしれない。
 既視感のある恐怖が、稲妻のように全身を貫く。
「閣下?」
「少し――少し外させてくれないか」
 ヤンは艦橋を出て、自分の執務室へ駆け込むと、引き出しの中のブランデーを紙コップになみなみと注いで、一気に煽った。自分の感情がのこらず剥き出しになり、初めて経験することであるかのように怯え、震えているのがわかった。アルコールで麻痺させないと、自分がどうなってしまうのかわからなかった。
 同じはずの“死”にまったく異なる意味をつけ、それによって露骨に心を動かされる自分が嫌だった。けれど名前も知らない兵士の死にいちいち動揺していては神経がもたず、一個艦隊の司令官など務まるはずがない。偽善でも偽悪でもなく、そういうものだと割り切るしかなかった。それを、ワルター・フォン・シェーンコップが揺らがせる。
 ああ、とヤンはアルコールの混じった息を吐いた。
 絡まる思考がひとつの結論を導き出す前に、軽い電子音と共に内線が入った。負傷者の収容が完了した、という報告だった。シェーンコップは病院船ではなく、ヒューベリオン内に収容されているらしい。ということは、やはりさほど重傷ではないのだ。
 見舞わねば、ならないだろう。ヤンは了承したことを伝えると、立ち上がり、すこしふらつく足取りで、医務室へ向かった。
「シェーンコップ准将はこちらです、閣下」
 看護師に案内され、簡単な病室のひとつに入った。
 当然ながら、看護師の容姿などいちいちヤンは把握しきれていない。だからシェーンコップの要望にも応えようがない。しかしシェーンコップの担当らしい看護師は、栗色の髪に同じ色の瞳の、品の良い顔立ちの若い女性だった。
「まあ、妥協できる範囲内ですな」
 ヤンの姿を見るなり、シェーンコップはそう言い放った。
「地獄の門を追い返されましたよ」
 起こした上半身の、隆々とした左肩がゼリーパームで覆われているが、他に目立った外傷は見当たらない。一晩もここにいれば十分軍務に戻ることができるでしょう、と看護師は言って、部屋を出て行った。患者は彼一人ではないのだ。
 残されたヤンは、何を言ったらいいかもわからずに立ち尽くしていた。言葉が、言葉の果たすべき役割を果たそうとせず、喉の筋肉が石になる。それでも懸命に一言、ありふれた言葉を絞り出した。
「無事で、何よ……」
 震えた声はそのまま消えた。ここにはヤンとシェーンコップしかいないという事実が、ヤンの背を突き飛ばし、そのままヤンはシェーンコップの右肩に顔を埋めた。
 人に見られれば、誤解では済まされない。自重しなくてはいけないのに、心が幾人ものヤン・ウェンリーに分裂してしまったように言うことをきかない。
 部下たちの前ではせめて信頼できる司令官であらんと、無意識にかけていた感情の安全装置が外されてしまった。引き金さえも引いてしまった。あとは弾丸の飛ぶ様を、為す術もなく見届けるだけだ。
 同性の上官に抱きつかれ、シェーンコップは自分を拒絶するだろうと思った。そうであるべきだと思った。それならば、なにもかも諦めることができるかもしれない。
 ヤンの屈折した願いとは裏腹に、シェーンコップはなにもしなかった。
 流れを遮られ、沈黙が逆巻く。
 黙っていることに耐えられなくなり、シェーンコップから離れようと思ったが、離れるときに彼の顔を見ることは怖くて、どうしようもなくそのままの姿勢で震えていた。
「悪くないものですな」
 シェーンコップがくつくつと笑っている。自分がしてしまったことと、シェーンコップの反応が頭のなかで噛み合わずに、ヤンは混乱した。
「え……?」
 思わず顔を上げていた。シェーンコップは愉快そうに、しかし目だけはぎらぎらと光らせて笑っている。
「生きて帰ってきて本気で泣かれるなんて久しぶりですよ。しかも貴方が相手とは、まあなかなかどうして悪くない」
「泣いてる?誰が?」
 シェーンコップは片眉を上げた。ヤンは自分の頬に触れ、そこが濡れていることに気づいた。
「本当だ」
 やれやれ、とシェーンコップは頭を振った。
「貴方の目には何百光年も遠くのことが映るのに、どうやら半径三メートル以内のことに関しては、ほとんど盲目のようですな」
「そうかな……」
 シェーンコップは身体を起こしヤンの腕を掴むと、ぐい、とベッドに押し倒した。ヤンが瞬きをする間に、ベッドに寝ているのがヤンのほうで、その上に跨っているのがシェーンコップという状態になっていた。
「でははっきりと断言しましょう。貴方は、私を愛している」
「シェーン、コップ」
「作戦が始まる前の朝、貴方が私をどんな目で見ていたか、貴方はご存じですか」
 あの赤黒い感情が、ヤンの脳裏に蘇ってきた。しかし他人からどう見られていたかなど、想像する余裕はヤンにはなかった。
「“この男と寝ている他の女が憎い”“この男を自分だけのものにしたい”――貴方の瞳には緑の焔が燃えるようだった。そう、嫉妬ですよ。それも凄まじい」
「嫉妬……」
 ヤンは口に出して呟いてみた。嫉妬。焔のような、凄まじい嫉妬。それは自分からはもっとも縁遠い感情に思えた。ラップとジェシカが交際しはじめたときでさえ、うら寂しさを感じこそしたが、ラップを憎いと思ったことなど一度もなかった。その自分が、顔も見たことのない女を憎いと思っていた。
 無意識に唇からこぼれ出た。
「私は、君を愛してるのかな」
 答えは言葉ではなかった。シェーンコップがヤンの唇を塞ぎ、甘く吸った。ちゅ、と小さな音が、鼓膜をくすぐった。指の先まで硬直して、シェーンコップが離れたときですら、ほとんど身動きができなかった。
「今のご気分は?」
 シェーンコップの表情は一見優しげにさえも見えるが、これほどの至近距離では、爛々と輝く瞳は隠しようもない。
 なんとうつくしいけだものの瞳。
「こんな気分、初めてだ」
「それはどういう?」
「……よく、わからないんだけど……。……君は?」
 シェーンコップが、世話が焼けるとでも言いたげに笑う。
「言葉にしなければ、おわかりになりませんか?」
「それは言葉を使い尽くした人間だけが言っていいことで……あっ!?」
 つい数時間前まで戦斧を握っていただろうシェーンコップの手が、ヤンの脇腹を撫でる。服越しであっても、その感覚は鮮烈だった。ぞくぞくと、電流が背筋を走る。それがなんとも甘美で、かえってヤンは慌てた。
「ここはだめだ、人が来る」
 拒絶の言葉に、かすかに甘い息の音が混じっているのを、シェーンコップは満足気に聞いている。
「今更でしょう。そもそも、先に人に見られてはまずいことをしたのは貴方の方では……」
 ヤンの黒い瞳が頼りなげに揺れた。やれやれ、とシェーンコップは苦笑を深め、ヤンの髪を撫でながら言った。
「ご心配なさらず、まだ巡回の時間ではないはずです」
「詳しいんだね」
 あの美人の看護師の姿が脳裏に浮かび、シェーンコップが指摘した時ほどではないにせよ、不愉快な気分になる。まるで十代の少女のようではないか、と我ながら呆れるが、すでに感情が理性の手綱を離れてしまっていることを、ヤンはうっすらと自覚していた。
「それじゃあ、まさか、このまま」
 シェーンコップはにやりと唇を歪めた。かすかに覗く白い歯に食いちぎられる様を夢想して、不安とは裏腹に下半身に熱が淀む。
「貴方がそれをお望みならば」
 ふたつの唇が、今にも触れ合わんと近づく――が、ヤンの端末がけたたましく鳴る音に遮られた。ヤンは安堵と失望が綯交ぜになった気持ちでシェーンコップの身体の下から這い出ると、呼び出しに答えた。どうやら自分に会いたがっている相手がいるらしい。
「君も来られるかい?」
「まあ、一人の相手ぐらいなら問題はないでしょう」
 シェーンコップが、ベッド脇にかけられていた軍服を掴んだ。それを見ているヤンの瞳から、ゆらゆらと陽炎のように揺れていた光が消え、静かな黒に戻っていた。凪いだ夜の海を、シェーンコップは連想した。
 ヤンは看護師を呼びつけてシェーンコップを連れて行ってもいいかと尋ねているところで、だから、シェーンコップの瞳に一瞬宿った、凶暴なぎらつきに気づくことがなかった。

 “訪問者”はシェーンコップの盛った一服で眠らされ、タンクベッドに詰め込まれている。次の目標まではまだ距離があり、僅かではあるが休息を取る時間もある。各々、つかの間の安らぎを享受していた。次がある保障など、どこにもないのだ。
 ヤンはベッドの中で天井を見上げていた。寝ようと思えば十分と経たず眠りにつけるヤンだが、もうこうして三十分もぼうっとしている。戦闘の余韻のせいだろうか。それもないとは言い切れないが、それ以上に、シェーンコップの言葉が、シェーンコップの口づけが、ヤンの心を乱す。
(貴方は私を愛している)
 愛。ヤンは口の中で呟いたが、甘い味すら残さずに消えた。それほど、ヤンには馴染みのない言葉だった。愛という感情は、ばらばらにすればするほど様々な言葉が出てきて、ヤンを混乱させる。今、ただ一人の家族であるユリアンに抱いている感情もきっと“愛”なのだろうが、シェーンコップが口にした“愛”は、それとは別のものが出てくるのだろう。
 例えば、赤黒い嫉妬。緑色の焔。
 あのときシェーンコップに抱かれる予感がして、理性はたやすく感情の手綱を離した。思いのままに暴走する感情はどこへ行き着くかわからない。あるいは、子供だったときの感情はそれに近いのかもしれないが、子供にも子供なりの理性があった。それ以前のことは、ヤンの記憶にはない。
 大人になってから引く風邪はたちが悪いという。なるほど、たちが悪いのは風邪だけではないのだ。
 熱は身体中を食い荒らす。居ても立ってもいられなくなり、ヤンはベッドを出てパジャマを脱ぎ、シャツとチノパンツを着た。
 「ずいぶんと傷の治りが早い」と医者にも呆れられたシェーンコップは、もう自分の居室に戻っているはずだ。いきなり上官に訪ねてこられて、シェーンコップは面食らうだろうか。
 深夜にヤンが出かけようとするので、ユリアンは驚いたようだった。パジャマ姿で、目をこすりつつ部屋から顔だけ出して尋ねた。
「呼び出しですか?」
「いや……」
 ヤンは言葉を濁した。イゼルローンでならば、「ちょっと飲みに行ってくる」と言えばユリアンは「あまり飲み過ぎないでくださいね」とそれ以上詮索しようとはしなかったのだが、戦艦の中ではどうしようもない。ちょっとした用で、とか適当に取り繕えばいいのだろうけど、出かける動機にやましさがあるから、ためらってしまう。
 これではまるで夜遊びに出かけようとする娘のようだ。ヤンは苦笑する。
「シェーンコップに誘われたんだ。いい酒があるそうだ」
「もう、お二人して、飲み過ぎないでくださいよ」
 隠しても仕方ないと、正直に言う。ユリアンは小さくあくびをした。
「私の帰りを待たなくていいから、早く休みなさい」
「はい……おやすみなさい、提督」
 ユリアンの姿が見えなくなる。どうか良い夢を見てほしい、とささやかに祈った。
 今の気持ちもきっと、愛には違いないのだろう。
 けれどヤンは今の自分を侵している感情を、そんな耳障りのよい言葉では表したくないと思った。
 そんな曖昧な葛藤を抱える自分の姿が、玄関の姿見に映った。頬をわずかに紅潮させ、瞳にぎらりと油膜の反射するような光をたたえ、鏡の中の男はヤンを見返した。ああ、とヤンはため息をついた。
 あえて言葉を探そうとしなかったものは、すべてそこにあった。
 シェーンコップの部屋の前に立って、インターホンを押す。一瞬、女性の声がしたらどうしようか、という想像が頭をよぎった。そのときは、黙って帰ろう。なにもかも、なかったことにしてしまおう。逃げの算段だけは、いつだってうまいのだ。
「来ていただける頃だと思っていましたよ」
 その逃げ道は、あっさりと塞がれる。玄関に現れたガウン姿のシェーンコップに導かれ、部屋の中に足を踏み入れた。
 一人で過ごしていたら、数日経たずヤンの部屋は本やごみで雑然としてくるのだが、シェーンコップの部屋にはそのような気配は微塵も感じられない。よく整理が行き届いているが、生きた人間が暮らしているという気配はそこかしこに濃く漂っている。
「貴方がここに来られたということは」
 シェーンコップは部屋を見渡していたヤンの腰を抱き、鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。
「貴方の望みは、この私だと解釈してもよろしいのですね」
 けだものの瞳に魅入られて、何も言えなくなりそうだったから、ヤンは一度目を閉じた。開いたときには、覚悟は決まっていた。
「そうだ」
「それは、光栄」
 ふいにシェーンコップの身体が離れ、ヤンの右手を取ってその甲に唇を押し付けた。自然、深々と礼をしている形になる。あっけにとられたヤンに向かって、シェーンコップは不敵に笑ってみせた。
「Meine Prinzessin、貴方が望むのならば、勝利も、――国でさえも、手に入れてご覧にいれましょう」
 場違いなほど芝居がかったシェーンコップの言葉を聞いて、ヤンは困ったように眉を寄せた。
「やめてくれ、シェーンコップ。私は勝利することだけを目的に戦っているわけではないし、国は誰か一人が手に入れるとか、そもそもそんな表現を使うべきものではないし……って、プリンツェ……?」
 ヤンの頭のなかにある、埃をかぶった帝国語の辞書が、その意味を導き出す。瞬間、ヤンは髪の毛を逆立てんばかりに赤面した。
「正気か!?」
「私は正気ですよ」
 シェーンコップの表情から、笑みが消え失せた。そのあまりに真面目な、切迫しているともとれる表情に、ヤンの心臓は跳ねる。
「それは、どういう、意味で」
 ようやく、そう尋ねていた。シェーンコップはすぐには答えず、ヤンを横抱きに抱え上げた。驚いて多少抵抗したヤンだったが、すべて無駄に終わり、ベッドに横たえられた。
「言葉にしなければ、おわかりになりませんか?」
 昼間と同じ問いを投げかけられ、ヤンは視線を彷徨わせる。
「わからない……私は、言葉じゃないと、わからない」
「強情なお人だ」
 あるいは、哀れか。呟きはシェーンコップの口の中で消え、ヤンの耳に届くことはなかった。
 噛みつくようなキスが、ヤンの唇を襲った。シェーンコップにされるがまま、舌を吸われ、腔内をあますところなく舐られる。背筋がぞくぞくと細かく震える。とめどなく唾液が溢れて、頬まで伝って濡らした。
「っは、は、はぁ」
 唇同士が離れた僅かな隙に、溺れかけた人のように激しく息をした。酸素が足りず、頭がぼうっとしている。そんなヤンの様子を見て、シェーンコップは笑った。
「余裕がありませんな」
「あるわけ、ない、だろ」
「こういうことを、女性としたことがないわけではないでしょう」
「そりゃあ、ないわけじゃないさ。でも君は、なんだか特別なんだ」
 一瞬、シェーンコップは虚を突かれたような顔をした。そしてすぐに、くくく、と低く喉を鳴らすような笑いが漏れてくるのを、ヤンは聞いた。
「貴方もなかなか、殺し文句を心得ていらっしゃる」
「え?」
「いえ、こちらの話ですよ」
 シェーンコップの唇が、舌が、首筋を這う。シャツのボタンはすべて外され、女性にするように胸を弄ばれる。肌が溶かされ、神経に直接触れられているかのようだ。恥ずかしい、みっともない、そう思って声を殺そうとするのに、食いしばった歯の隙間から息に混じって音が漏れる。
「うぅ……っ、ふ……」
 愛撫は執拗で、容赦がない。
 このまま真っ白になるのが怖くて、別のことを考えようとした。シェーンコップが、自分のことを“姫”と呼んだ意味について。童話のなかのお姫様はほとんどが純真無垢で、それゆえに苦難に遭い、それゆえに最後はハッピーエンドを手に入れる。しかしそれは、三十を迎えた男に言うべき言葉だろうか。それとも、半径三メートル以内のことにまるで気のつかない鈍さを揶揄されているのだろうか。
 次の瞬間、思考は灼けて飛んだ。
「ひぁ!」
 ぬめる指が、性器のさらに奥に触れている。性感なのかはわからないが、敏感な粘膜に触れられる感覚に、全身の毛が逆立つ。
「よそ見をしている余裕はないでしょう。今から、貴方はここで私を受け入れるのですから」
「む、無理だ」
「案ずることはありません。貴方はただ、身を任せていればいい」
 ただ身を任せているだけでは、気が狂うと思った。他者に身体のすべてを暴かれ、触れられる快楽は、経験したことのないものだった。さらにこれから、暴かれるだけではなく、受け入れるのだという。本能的な恐怖に混じって、ズクズクと下腹が疼くような感覚が走り、ヤンは戸惑ったが、戸惑ったままでいられる余裕さえ残されていなかった。
「あっ、あっあっ」
 声を抑える力もなく、上ずった嬌声がとめどなく漏れた。身体の内側まで入ってきた指のかたちを、はっきりと感じる。粘つく水音が、耳までも犯す。
「あぁ……無理、むり、だ……。へんに、なる……」
 過剰な快感から逃れようと首を振るが、ぱさぱさと髪がシーツを打つだけで、まったく抵抗にならなかった。
「捨てておしまいなさい、理性など、言葉など」
「いや、怖く、て」
 ず、ず、ず、と腹の中をシェーンコップの指がなぞる。痛みと、異物感と、それ以上の官能に、ヤンは目の端に涙をにじませた。その涙を、シェーンコップの舌がすくう。
「シェーンコップ……」
 視線が絡みあう。けだものの瞳と思っていた目は、驚くほど慈しみに満ちていた。ヤンの中で、火柱が立つ。白い炎が、甘やかに肌を内側から焦がす。
「シェーンコップ、シェーンコップ……!」
 突き動かされるように、シェーンコップの唇を食み、舌をなぞる。一瞬でも長く、一ミリでも深くこの男とつながりたい、という本能に操られるがまま、キスを繰り返し、頬を撫で、腰を振った。その拍子に立ち上がった性器同士が触れ合い、灼熱の快感をもたらした。
「はぁ……あっ…あん…」
 黒い瞳はどろどろにとろけ、紫がかった燐光を放つようになっていた。それが涙で幾重にも光を反射する。
「うつくしいな」
 珍しく飾らない、余裕が無いともとれるシェーンコップの言葉の意味など、今のヤンにはわからない。ただ、“嬉しい”という感情だけに支配される。
「あっ……ああ、すごい……なにか、くる……」
 白い炎が、視界のすべてを燃やし尽くした。背筋が不随意に丸まって震え、全身の筋肉が痙攣する。勢い良く溢れた精液が、筋肉の形を浮き上がらせるシェーンコップの腹を汚した。
 はー、はー、と深く息をする。犬のように垂れた舌からは、唾液が伝って落ちていく。甘い脱力感に浸かっていた肉体は軽く持ち上げられ、両足をシェーンコップの肩に担がれた。
「達したところ申し訳ありませんが、私も限界でして」
 ヤンの頬に、シェーンコップの汗が落ちた。
「うん……いいよ。きて……」
 両手を広げ、シェーンコップを受け入れる。
 衝撃は、想像を遥かに超えていた。
 そもそも、そこは他者とつながるべき器官ではないのだ。そこにヤンのものより大きいシェーンコップの分身がねじり込まれる痛みは、尋常ではない。しかし、普段なら悲鳴を上げて抵抗していただろう痛みを、今のヤンは甘受している。苦痛よりも、シェーンコップとつながれるのだ、たとえ擬似的にではあっても、ひとつになれるのだ、という本能の喜びのほうが勝っていた。
「あ……は……」
 だから、浮かぶのは笑みで、揺さぶられて脂汗が額から流れ落ちても、それは消えない。それを見たシェーンコップも笑みを浮かべるが、陶酔しきっているヤンに比べ、幾分余裕がない。
「こんなに溺れるとはな」
 自嘲めいた言葉を吐き、一気にヤンを貫く。
「ああーーーーーっ!!」
 絶叫は、苦しみのためではない。逸らした喉を震わせ、ヤンは悶える。
「きみは、きもち、いい?」
 シェーンコップは眉を寄せたままうなずいた。
「想像以上……ですよ」
 額に唇を押し付けられた。それが、涙が出るほど気持ちよくて、しあわせだった。
「うれしい」
 意味のある言葉は、そこで消え失せた。
 獣のように啼き、吠えた。突き上げられるたびに、脳がぐちゃぐちゃに掻き回されているような心地がした。何度絶頂を迎えたのか、わからなかった。シェーンコップもそれくらい気持ちよくあってほしいと思った。
 炎で燃やし尽くされ、あとには真っ暗な意識だけが残った。失神したのだ、と自覚する間もなかった。


 気を失っていたのは、一時間ほどの間だけだったようだ。
「喉が乾いたでしょう」
 そう言って、シェーンコップは水を含んだままキスをしてきた。口移しで飲む水は生ぬるかったけれど、こころなしか甘い味がした。こくり、とヤンが水を飲み込むと、そのままキスが激しくなる。また燃え上がってしまいそうで、ヤンは慌てて唇を離した。
「これ以上は、死んでしまうかもしれない」
「気持よくて、ですか?」
 シェーンコップが意地悪く笑う。もしかして、我を忘れていたときに、そんなようなことを叫んでいたのかもしれない。そう思うと、恥ずかしくていてもたってもいられず、シーツに顔を埋めて唸った。
「忘れてくれないか!」
「たとえ命令でも、承服しかねますな。貴方の艶やかな姿や声を忘れるくらいなら、死んだほうがマシです」
「じゃあ、私も君がどれほど切羽詰っていたか、忘れない」
「どうぞ。ただひとつ言っておくならば、それは貴方が相手のときだけですから」
 さりげなく差し挟まれる殺し文句に、ヤンは頬を紅潮させた。恥ずかしさではなく、喜びの感情のほうが勝っていることに気づいた。ごく自然に、シェーンコップの手を取って、指を絡めていた。
「どうして、君は私を“お姫様”なんて呼んだんだ?ローエングラム侯のような美貌の持ち主ならともかく、こんな冴えない三十路男を」
「特に深い意味はありませんよ。“騎士”と“姫”はいかにも物語らしい構図でしょう」
「ふうん……」
 シェーンコップの太い指をいじる。ところどころ硬くなっているのは、銃や戦斧を握り続けているためだろう。よく見れば、腕にも、肩にも、つい昨日できたものから、いつのものかわからないものまで、無数の傷がついている。その中のいくつが、致命傷になりえたものなのだろうか。
「……“騎士”は“姫”の言うことを聞くものだね」
「そうでしょうな」
 襲ってきた恐怖に飲み込まれないように、続けた。
「君は死んではいけない。私より先に、とか、そういう条件じゃない。君は、君が言ったとおり、百歳を超えるまで生きなければならない。……いいかい?」
「ご心配なさらず。貴方が生きている限り、私は死にませんよ。決して」
 だから、そうじゃなくて――と言葉を継ごうとして、ヤンはやめた。
「もしかして、君は今とてつもない愛の告白をしているのかな」
「これを愛の告白というのならば、先に言い出したのは貴方のほうでしょう」
 そうかもね、とヤンは曖昧に濁して、シェーンコップの胸に顔を寄せた。
「しかし、貴方の“言葉”を聞くのに、少し時間がかかってしまった。やはり貴方は容易ではない」
「容易、だよ。君にその……抱かれたら、もう止めるものがなくなってしまった」
 かすかに、心臓の音が聞こえる。
「君を、愛してる」
 シェーンコップの手が、ヤンの肩を強く抱いた。
 百歳を超えるとか、超えないとか、そんな遠い未来のことは、今はどうだってよかった。シェーンコップの体温を感じ、鼓動を聞きながら眠れるのならば、それはどんな輝かしい未来よりかけがえのないこと、どんな恐怖すべき未来でも意味のなくなることだと思えた。
 この男の寝顔を独占しながら眠り、お互いに寝起きの顔を見て目を覚ます。
 明日は、きっといい朝になるだろう。
Back