はかなくもうつろうもの

 しらじらとした明かりの下でまじわるのを、ヤンはひどく嫌がった。私の身体なんか見てもつまらないだろう、と両腕の下に隠した顔が言う。シェーンコップにとってはつまらないどころか、今は下着に包まれている稜線のなす陰影も肌のつややかに照るのもいくら見ても飽きないような眺めであったのだが、ヤンを不機嫌にさせるようなことを言うのは少なくとも現時点では本意ではなく、しかたなく照明を落としてベッドサイドの灯りだけを頼りにむつみ合うことにした。
 まだシャツもズボンも身につけているシェーンコップの身体の下でヤンはもぞもぞと、抱き合うのにちょうどいい場所を探しているような、けれどもまだ恥じらいを残しているような仕草で身体をくねらせた。
 と、ヤンの動きが止まり、はたと深黒のまなこと視線がかち合う。瞳孔の闇、ランプの灯りを受けて虹彩が橙にきらめくのを、シェーンコップは宝石でも眺めるような気分で見る。
 こういうときでもヤンの瞳は驚くほど静かで、凪いだ湖面を連想させるが、紅く染まった目の周りと調和がとれておらず、しかしそれがひどくシェーンコップの欲を誘った。
 ヤンがかすかに唇を開いて目を閉じる。黒い宝石が見えなくなるのを心のどこかで惜しみつつ、誘われるままその唇を吸って舌を差し入れた。
「ん……」
 身体を結ぶ関係になったばかりの頃は、キスひとつとってもそれはつたなく、何度もむせられ、舌を噛まれた記憶がある。いまではシェーンコップに少しは学んだのか、鉄の味がするほど噛まれることはないけれども、やはり技巧は心許ない。
「ふ」
 すぐれた技巧の女と寝たければ今でもそうする。ヤンはそれをあの静かな瞳でじっと見ている――そんな錯覚をつきまとわせながら。
 ヤン・ウェンリーに溺れるのは、他の女に溺れるよりずっとたちが悪いと、むしろヤンの歯茎や頬の肉を食む勢いでくちづけながら、しびれだす頭の奥でかすかに笑う。
「く、るし、い」
 キスの合間にヤンはあえぐように言って身体をよじる。なめらかな喉が、一瞬シェーンコップの目に映る。
 細い喉だ。シェーンコップならば、シェーンコップでなくとも、たやすく締め上げてしまえる喉。獣の欲望に突き動かされるまま、そこに歯を立てた。
「あと、つけないでくれよ」
 ヤンの声に残った理性をうとましく思いながら首筋を舌先でなぞり、鎖骨のくぼみを味わった。ふる、とヤンの肩が震える。
 ヤンの肩は、喉元の印象を裏切らず、細い。いままで数えるだけ徒労であるほどの数の女を抱いてきたシェーンコップがそう思うのだから、相当に細いに違いない。銃を撃つ反動で脱臼してもおかしくないような、いったいどうやって士官学校を卒業したのか不思議に思えばきりがない。
 それが頼りなく震えるのが、肉食獣じみた嗜虐欲をそそられるような、いっぽうでこれほどか細い造形なのかと、初めて女の身体を目にした十代の少年の頃の驚きを想起させられるような、落ち着かない気持ちになる。
 この肩に、民主主義というイデオロギーのひとつがのしかかっている。ふとそんな考えが浮かぶ。
 シェーンコップは、イデオロギーを信じない。銀河の此岸で正義であったことが、彼岸では悪となる。幼心に目にした、天と地ほども開きがある有り様のふたつの社会、国家、そのどちらもそれぞれの理由で腐りきっていた。
 けれども信じるに値しないものだらけの宇宙には、ヤン・ウェンリーがいた。彼女はそのほっそりとした身体で、いままさに宇宙から消滅しようとしているイデオロギーのひとつを背負っている。
「考え事……?」
 こんなときにめずらしいね、とヤンが笑っている。その目元の紅さの下に、はっきりと落ちくぼんだ隈が見える。
 イデオロギーなど、そんな不確かなものなど捨てておしまいなさいと、喉の奥でわだかまる言葉がある。捨てて、貴女が望むままにその力を振るいなさい。そうでなければ――。
 そうでなければ、なんだというのだろう。まさか自分と一緒に逃げてくれとでも言いたいのだろうか。そんな馬鹿げたことを、ワルター・フォン・シェーンコップが口にするはずがない。ヤン・ウェンリーが聞くはずがない。
 そしてヤンが信じるのならば、それがどんなことであれ、価値はあるはずだった。
 たとえ、それがヤン自身をどれほど苦しめても。
 しがみつくようにしてヤンを抱きしめていた。驚きに、ヤンの身体がわずかにこわばるのがわかる。
「くるしいよ、シェーンコップ」
 そして再び口づけた。感情は嵐だった。それを覆い尽くすほどの感覚がほしかった。
 ヤンがいつも身につけている、ごくごくシンプルなデザインの下着を剥ぎ取り、露わになった乳房をこねた。シェーンコップの荒々しさに戸惑いつつも、ヤンの吐息に次第に甘い声がこもりだす。
「あ、あぁ、あっ」
 それを耳に心地よく聞きながら、うっすらと骨の浮いた脇腹や、へそや、下腹を愛撫する。汗を舐めとり、やわりと歯を立て、吸う。
「くすぐったいよ……」
 はっきりと女の声音で、しかしすこしだけおかしそうにヤンが言う。そのわずかな余裕も、柔らかな茂みの奥へ唇を這わされると消えた。
 塩辛いような酸いような味のする泉、慣れた味ではあるがヤンのものだと思うと身体の芯から烈しい熱が熾る。ねばつく音を立てて吸えば、ヤンが羞恥と快感に首を振るのが見えるようだ。
「やだ、それ、やだ」
 本気の拒絶ではないと知っているから、舌がうごめくのもこぼれる蜜を飲み下すのもやめはしない。
「あっ、あん、ん、だめ、あっ、――」
 ヤンの声は階段を駆け上がるように上ずっていき、ある点で高くかすれて聞こえなくなった。同時に、腰が跳ねて濁った蜜があたりを汚す。
 そっとヤンの様子をうかがえば、身体に力が入らないのか枕に身を預け、細い肩を上下させ、胸元まで真っ赤にして深い呼吸を繰り返している。
「もう少しだけ、堪えていいただけませんか」
 ぐらぐらと身体の内が煮えている。ズボンの内側の熱は張り詰めて痛いほどで、はやく解放してほしいと脳髄に訴え続けている。そんなシェーンコップの熱を知っているヤンはこくりと頷いて脚をわずかに開いた。かすかに残った羞恥は、かえって欲をあおる結果にしかならず、シェーンコップはヤンの膝に手を差し入れると自身が入れるほどに大きく開いた。黒い茂みの奥で咲く花が見える。ヤンはもう腕で顔を隠したりはせず、瞳は夢見るように潤みシェーンコップを見るともなく見ている。
 切迫した熱の塊を薄いゴムの膜で覆い、ヤンのなかへ突き入れた。――突き入れたというのは錯覚で、本当は飲み込まれたのかもしれない。そう本気で思わせるほどヤンのなかは温かく柔らかで、シェーンコップを無限の受容をもって受け入れる。
「服、脱いで」
 言われるがまま、すでに汗でべっとりと貼り付いていたシャツを脱ぎ、素肌でヤンと抱き合った。胸板の下で乳房が潰れる感触。ヤンの小さな手が、桜貝のような爪がシェーンコップの背中を掻き、その痒いような痛みでさえ焼け付くほどに甘い。
「ああ、シェーンコップ、シェーンコップ……!」
 揺さぶられ突き上げられ、原初の快楽に溺れながらヤンがシェーンコップを呼ぶ。呼ばれるたびにこみ上げてくるものを止められず、汗に混じったのは涙ではなかったか。
 ヤンの身体が、一度目よりはっきりと大きく跳ねる。白熱する快感に低くうなり、数拍遅れてシェーンコップの熱もはぜた。思考はただ空白。その空白をヤンも味わっていればいいと、シェーンコップは願うような気持ちで目を閉じた。

 だるさの残る薄闇のなかで、ねえ、とヤンがどこか子供っぽいような口調で話しかけてくる。とっくに眠ったと思っていたからシェーンコップは少し驚き、しかしそれを表には出さずに「なんですか」と答えた。
「私、君のこと名前で呼んだことがなかったなって考えていたんだ」
 シェーンコップの厚い胸板を枕代わりに、鼓動を子守歌代わりにしながら、ヤンはまどろむように続ける。
「君も私のこと、名前で呼んだことがなかったね」
「呼んでほしいのですか」
 からかうようにシェーンコップが言う。ヤンはすぐには答えなかった。
「恥ずかしいから、今はいいよ」
 ウェンリーと呼ぼうかと一瞬考えて、やめた。その名前はとても壊れやすい宝物であるようにシェーンコップには思われた。たとえそれが子供じみた感傷であっても。
 それ以上に、喉の奥から許されざる言葉が漏れてきそうで、シェーンコップは奥歯をかみしめた。
 ――逃げましょう。なにもかも捨てて。
 それは戦い続けるヤンへの、ヤンのそばに在れと誓った自分への最悪の侮辱だとわかっていた。
「明日も早いよ。おやすみ、シェーンコップ」
 ヤンは、次第に重くなったまぶたを支えきれないとでもいうように眠りに落ちつつあった。そのまぶたのふくらみ、睫毛がおちかかる様を、シェーンコップは眠らずに、いつまでも眺め続けていた。




180618
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