ワルターとウェンリーは仲の良いきょうだいだった。「だった」というのは彼らの関係性がもはやただのきょうだいであるとは言えないほど変質してしまったからで、また彼ら自身も自分たちの関係につけるべき名前を思いつかずにいたために過去形とならざるをえなかった。
すこし神話や伝承の類いに詳しければ、このきょうだいの名が人々がまだ星々の間を行き来していた頃の伝説から取られているのだと理解するだろう。伝説に名高き魔術師とその矛となった騎士。
騎士の名をつけられた兄は活発で喧嘩が絶えず、魔術師の名をつけられた妹はおとなしくいつも本――歴史の本ばかり読んでいた。なにかと同世代の子供たちからからかわれる妹を、兄はいつも守っていた。
まるで伝説をそっくりそのまま写し取ったようだと微笑していた両親の頬がこわばりだしたのはいつの頃だろうか。きょうだいが思春期になる頃にはもうその関係は“異常”ですらあった。兄は妹に執着した。まるで少しでも離れれば、妹が永遠に失われてしまうという妄想に駆られているかのように。
――兄の灰褐色の目を、その視線がまだ透明だった頃を、ウェンリーは思い出す。いつからかそこには名状しがたい恐怖のようなものが宿るようになった。いつも賢く強く、喧嘩でもスポーツでも人に負けたことのない兄がいったいなにを恐怖しているのか、いつも不思議に思っていた。
六月の初めの日、重い雲から水滴がしたたり落ちるような深夜。ウェンリーは額に汗をびっしりと貼り付かせて目を覚ました。なにかひどい夢を見ていた気がしたが、視界一面の赤以外思い出せるものはなにもなかった。左の腿がしくしくと痛んだ。ベッドサイドの灯りをつけ、パジャマのズボンを脱いで確かめると、痛みは腿についたあざから発せられているのだとわかった。幼い頃からあるあざだった。傷ではないだけに痛みは不気味だった。
それからは寝付けず、ウェンリーはひっそりと兄の部屋に行った。昔からなにかと兄を頼る癖がある。困ったときも、悲しいときも、兄ならばなんとかしてくれるのではないかという期待があった。
兄は、ワルターは起きていた。しらじらと明るい部屋のベッドの上で、まんじりともせず宙を見つめていた。
「兄さん……」
吐き出した息を、ウェンリーは飲み込んだ。兄は泣いているようだった。兄の涙を、ウェンリーは見たことがなかっただけに、衝撃は大きかった。
ふいにワルターの目の焦点がウェンリーの顔の上で結ばれた。
「閣下?」
その言葉が自分に向けられたものとは思えず、兄はまだ夢を見ているのだろう、とウェンリーは思った。
「兄さん、すこしいいかな。さっきからずっとこのあたりが痛いんだけど……」
そう言って左の腿を指さしたときの、見開かれた灰褐色の目、そこに宿ったなまなまとした恐怖。烈しい感情に当てられ呆然としたウェンリーは腕を掴まれ、そのままベッドに引き倒された。
「兄さん、なにを」
唇を口で塞がれてそれ以上言葉がつなげなかった。大きな手が身体中を這った。まるでそこにウェンリーがいることを何度も何度も何度も確認しているように。それを思うと、なぜか泣きたくなった。自分はここにいるのだと、どうにかして兄にわからせる方法がないのかと思った。
乱暴される予感にたいする恐怖はなかった。
その手が次第に熱を帯び、性的な意図を持ちだしても、いっそ薄気味悪いほどに平静で、兄に貫かれたときは烈しい痛みを感じこそしたものの、血と愛液にまみれてずるずると快楽を引きずり上げられ、絶頂を迎えた。
これが達するということなのかと理解すると同時に、とろりと安堵に似た感情が広がった。そうしてけだるい眠りの淵で、ウェンリーは幻を見た。
こちらを見下ろす兄の顔が、二回りほど歳を重ねたように見えた。それが泣き出しそうなほど懐かしく思えた。
「うん、ごめん、■■■■■■■」
自分でつぶやいた名前を、ウェンリーは記憶にとどめておくことができず、すべてが暗闇に滑り落ちていった。
一度覚えた快楽の味を、十代の少年少女が手放せるはずはなく、兄と妹は両親の目を盗んでは肌を重ねた。誰の目もないところで、二人は恋人同士だった。この日々が、甘い甘い蜜月が、永遠に続くものだと信じ切っていた。
少なくとも兄の方はそうだった。それをウェンリーはどこか俯瞰するように見ている。兄を受け入れる瞬間の、兄の老け込んで見えるほどほっとした表情を、不思議に思って見つめている。
ある大雨の日だった。二人は親戚の葬儀に出かけた両親を見送り、いつものようにワルターの部屋で服を脱いで愛撫を始めた。夢中になりすぎて、下の階でドアが開いた音も、雨のせいで引き返してきたのだと説明する声も聞こえなかった。
部屋のドアの前で立ち尽くす両親の顔は奇妙に印象に薄かった。
父親とワルターが激しい口論をしている。ウェンリーはぼんやりとソファに座って母親が泣きじゃくるのを聞いている。
おれが悪いんだ、おれがそうするようにウェンリーに言ったんだ、とワルターは叫ぶように言った。違うと言おうとしたウェンリーの目に映ったのは、振りかぶられた父親の右手だった。
身体が勝手に動いていた。兄をかばって父親の拳を受けたウェンリーは倒れ、ローテーブルの角にしたたかに頭をぶつけた。一瞬の火花と共に意識は暗転した。
ウェンリーは早回しの映画でも観るように魔術師と呼ばれた一人の男の一生を知ることになった。あるいは、思い出した、というほうが正しいのかもしれない。
「やり直すなんてはじめから不可能だった」
「血を分けた兄妹に生まれてしまうなんて」
「ここは地獄の別の顔なのかもしれない」
それが自分の嘆きなのか、その男の苦悶の声なのか区別がつかない。
「それでも会えてうれしかった」
「今度は二度と離れまいと」
「いまのわたしには、その想いしか残されていないのだから」
ああ、そうか、とウェンリーは納得した。遠い昔、魔術師の魂は地獄ですりつぶされ、砕け散ったそのひとかけらを飲み込んでウェンリーは生まれた。そこには自身の忠実な騎士への、名付けがたい思慕の情があった。魔術師自身それを恐れ、受け入れることを拒んできた甘く苦しい想いのかけら。
兄も同じだったのだろうか。
騎士の忠誠を、ウェンリーはすでに知っている。そこにあったのはなんだったか。期待、熱望、妄信、あるいは、愛。
しだいに白んでいく意識にのぼってくるのは、若くして自分の生まれてきた意味、その核心を明かされてしまったことに対する虚しさや、歴史に名を刻むほどの人物でありながら恋心ひとつ自由にできなかった魔術師に対する憐れみや、これから兄と自分はどうなってしまうのだろうと考える不安がないまぜになった、苦い味だった。
目覚めて初めて、自分が数ヶ月眠っていたことを知った。その間に兄が遠くへやられたことも知った。もう安全だと言う両親に、ウェンリーは一言「そう」と言っただけだった。
それからはウェンリーは従順だった。その実、ただひたすらに無気力なだけだった。魔術師と自分は違うと己ではっきりと線を引きたがったのに、胸の奥の奥、もはや魂としか呼べない場所が兄を求め軋んだ。軋み、ひび割れ、ひどく痛むのに、子供の自分にできることはなにもないと殻にこもった。
そんなウェンリーを遠巻きに見ていた同級生たちは、ウェンリーが反撃してこないと悟るやひどい言葉でからかった。傷ついていないと思い込むことで傷ついている事実をなくせると信じているかのように、ウェンリーは耳を塞いだままどんどん暗い場所に追い詰められていった。
夢だけが豊かに色彩を帯びていた。あの魔術師が幾度となくあらわれたのだ。
大英雄の心は、凪にはほど遠かった。しかし強かった。彼は何百万という人を命令一つで殺してきた。そしてこれからも、軍人である限りは殺し続けるだろうという暗い事実の前に打ちのめされそうになりながら、顔を上げて現実に迫り来る脅威と戦い続けた。
その精神に、ふいに隙間風が吹くように浮かぶ考えがある。
――独裁者に、なれる。
民が王や皇帝の力によることなく自らを治めることを良しとした彼にとって、その考えは毒だった。しかし甘い毒だった。それを口にしてみせたのが、かしずくべき騎士だった。
不逞に、不敵に、不遜に笑うその男を、彼は憎むことができない。苦手だ、と思うのに、妙に気が引かれてしまう。
やがてその想いがどこにいくか、ウェンリーは知っている。ここにいる、自分に流れ着くのだ。
混乱した。どこまでが自分の兄に対する思いで、どこまでが夢での追体験がもたらす感情なのかわからなくなった。
このままでは、兄が不在のまま思考だけを煮詰めていっては狂うという確信があった。
父親の書斎に忍び込み、見慣れない施設の名前が書かれた封筒を手に取った。直感でしかなかったけれど、兄はここにいるような気がした。
電車をいくつも乗り継ぎ、一時間に一本しかないバスに乗って記された住所の場所までたどり着いた。味気ないコンクリートの建物と、広い庭があった。開けた庭の隅にひそみ、兄が出てくるのを待った。日が落ちる頃、ふらふらと出てきた兄はひどく痩せて見えて、ウェンリーの胸は痛んだ。
「兄さん」
驚く兄の腕を掴んで走り出した。ウェンリーは足がそんなに速くはなかったからいつしか兄のほうが先に走っていた。
兄を探す大人たちの目を盗んで、星の降る下を駆けていく。着てきた白いワンピースの裾がはためく。今はもう遠い星ぼし、すぐにでもそこに行きたかった。そここそが自分の還るべき場所であるようにさえ思えた。
そう言うと、兄は少しだけ笑った。
「ずっと知ってた――知っていました。貴方が誰だったのか、自分が誰だったのか」
「私たちはもう軍人じゃないんだから、敬語なんか使わなくていいよ」
星の明かりに照らされる兄の横顔を、ずっと眺めていられると思った。
触れるだけのキスをして、ふふ、と笑い合った。
「大好きだよ」
魔術師が言えなかった言葉を口にすると、兄は泣き笑いになった。
兄の顔を見たら、どこまでが自分で、どこまでが夢のもたらす感情なのかもどうでもよくなってしまった。ただ一緒にいたかった。こうして抱き合ったまま、とろけて一つになってしまえればよかった。
大人たちの持つ明かりが近づいてくるのが見えたから、また手をつないで走り出す。
「このまま、あの星まで行けたらいいのに」
ぎゅっと手を握り返された。
「兄さん?」
「もう、離ればなれになるのは嫌なんだ」
兄の声は涙が混じっていて、頬のしずくを拭おうと手を伸ばしたけれど、ぐい、と手を引かれて体勢を崩した。そしてふわりと宙に浮いた心地がした。あ、と思う間に視界が反転し、星の海に落ちていく。還るべき場所へ、共にあるべき人と。
それしか、二人の心には残されていなかったのだ。
――結局、それからの二人の行方はわからなかった。あたりの池や湖をさらっても何も出ず、大人たちはそれぞれに深く悲しんだり責任を問われたりしたけれど、それさえ長い時間の中で次第に忘れられていった。旧い旧い神話のひとかけらが呪いのように二人をさらっていったのだと、二人の両親は嘆き悲しんだが。
二人は仲の良いきょうだいだった。昔はそうではなかったし、時の流れの一瞬の中でそうであっただけのことかもしれない。それでもその一瞬は星のようにきらめく。
たとえ、それ以外のすべてが暗闇だったとしても。
180601