聖餐

 一人住まいとはいえ将官向けのバスルームは広く、床に女一人寝かせて傍らにブルーシートを敷きナイフや工具の類いを置いてもなお余りある。捨ててもよい服を選んで着替えてきたシェーンコップはバスルームに入り、床に寝そべる裸の女を――ヤン・ウェンリーを見た。
 擦り切れ、疲れ果て、長い夜の終わり頃ようやく眠りに落ちることができたような、わずかな安堵をもってかすかに開かれた唇はそれ以上閉じることも開くこともない。その肉体に魂はなくすでに物と同じだった。それを理解しているのか、それともしていないのか、ヤンの頬を撫でるシェーンコップの手つきは壊れものに触れるように優しい。
 いくばくかの沈黙ののち、シェーンコップは並べられた武器と工具の中から刃渡り二十センチほどもあるナイフを手に取ると、ヤンのなめらかな喉を裂いた。細い足首を掴んで持ち上げ、喉から血が流れるに任せたが、出血は予想していたよりはずっと少なかった。彼女の血のほとんどはすでにレダⅡの冷たい床に流れ出ていたのだ。
 血まみれになったヤンの顔をタオルで丁寧に拭い、次に華奢な両肩の腱を切って関節を外した。「撃て」の一言とともに振り下ろされれば幾百万の命を奪った腕は胴から切り離された。脚も同じようにして身体から離された。ふっくらとした腿の左のほうには、ぽっかりと穴が開いていた。
 切れなくなったナイフを換え、腹を裂いた。内臓を破らないよう慎重に取り出していく。胃。肝臓。脾臓。腎臓。床に並べられたそれらはあかあかとしたバスルームの明かりを受けててらてらと光った。幾度も嗅いだことのあるひどく腥い臭いが立ちこめていた。
 ふいにシェーンコップの手が止まる。両手の間に子宮があった。それは想像していたより大きく膨らんでいた。その意味するところを理解しシェーンコップは我知らず笑みをこぼしていた。
 切り取った子宮だけは別に置いておくことにして、再び作業に戻った。腸を取り出して中身をしごき出して洗った。すさまじい悪臭だったが、シェーンコップの唇からは笑みが消えない。
 ひととおり内臓を処理し終え、手足の骨から肉を剥がしとると、ヤンの首と胴を切り離した。長い時間が経っていたためにヤンの黄みがかったベージュの肌は変色し始めていた。服を脱いでゴミ袋に入れ、新しい服に着替え、洗面所からいつかヤンが忘れていった化粧道具を持ってくると、慣れた手つきでヤンに化粧を施した。紅い頬や唇はいまにも動き出しそうで、シェーンコップは満足げに頭部を抱いた。
 キッチンに移動すると、大鍋にトマトソースとハーブを入れ、食べやすく切った内臓を放り込んだ。肉は大部分を保存することにして、左腿の肉を焼くことに決めた。心なしか気持ちが弾んでいるようだった。
 やがてきつね色に焼けた肉を皿に盛り付け、トマト煮をたっぷりとよそい、パンを添えて食卓に並べた。
「おいしくできたかい」
 向かいの席でヤンが笑っていた。
「残さず食べてくれよ」
 ええ、もちろん。そう言ってシェーンコップは席につき、ナイフで肉を切って口に運んだ。トマト煮をスプーンですくって食べた。半分ほど腹に収まったとき玄関のドアが開く音がした。足音が近づいてくる。一人だが、訓練された人間の足音。
「いったい何をしていらっしゃるのですか」
 変声してそれほど時間の経っていない青年の声。シェーンコップは振り返った。銃口がこちらに向いていた。



 司法解剖と葬儀を控え保管されていたはずのヤンの遺体が消えた。時を同じくして監視にあたっていたはずのシェーンコップと連絡がつかなくなった。ことは憲兵によって捜査されているとはいえ、ヤンとシェーンコップが恋仲にあることを知っていたユリアンは悪寒にも似た直感を得て憲兵の捜査が入る前に単身シェーンコップのもとに乗り込んだ。
 部屋じゅうに腐った魚のような嫌な臭いが立ちこめていた。ユリアンは顔をしかめ、しかし食卓につくシェーンコップの背からは視線を外すことなく銃口を向け続けた。
「いったい何をしていらっしゃるのですか」
 振り返ったシェーンコップは一言、食事だよと言った。
 赤く煮られたなにかの臓物。こんがりと焼けたなにかの肉。一人住まいには似合わぬ巨大な冷蔵庫。悪寒はいっそう強くなる。
「ヤン提督はどこに――」
 言いかけて、ユリアンはシェーンコップの向かいの席に置かれたものを見て青ざめた。それは美しく化粧されてはいるが人間の首だった。ヤン・ウェンリーの首だった。ダークブラウンの瞳に烈しい怒気がひらめく。
「ヤン提督に何をしたんだ!」
 一緒に食事を。シェーンコップの答えは要領を得ない。埒があかないと思ったユリアンは部屋の奥に進んだ。寝室にも、物置にもなにもない。引き返してバスルームの戸を開けた。
 そこにあったのは血まみれのナイフや工具類だった。それらを見て、喉の奥から酸く苦い液体がこみ上げてきた。どうか間違いであってくれと願いながら冷蔵庫を開けた。
 真空パックに入れられた大小様々の肉塊。瓶の中に浮かぶ膨らんだなにかの内臓。
 ――本気でこの男を撃ち殺そうと、ユリアンは思った。師であり母である人を二重にも三重にも辱められた気がして、怒りで耳鳴りがするほどだった。だが引き金を引くことはできなかった。憲兵隊とシェーンコップの部下たちが押し入ってきて、半ば錯乱したユリアンは羽交い締めにされたのだ。
 シェーンコップは意外なほどに抵抗せずに連れて行かれた。ユリアンは叫んだ。なにを叫んでいるのかもわからなかった。



 結論から言えば、シェーンコップは罪を裁かれることはなかった。彼のしたことは紛れもない犯罪だったが、罪を問うことはできないという判断が下されたのだ。ユリアンは最後までそれに反対したが、ヤンの教えに背いてまで私刑をくだすなどできるはずもなかった。
 そしてシェーンコップは清潔なシーツと開かない窓でできた牢獄のなかで、どこも見ていない目で、誰も見たことのないような穏やかな笑みを浮かべ、自らの心という二重の牢獄に捕らわれている。
 それは地獄のもう一つの顔だった。
 ――シェーンコップ、君の子だよ。君によく似た男の子だよ。
 今も遠く声を、ヤンが笑う声を聞いている。それは聖堂に響く賛美歌にも似て、シェーンコップから恍惚のままに理性を奪っていく。すべてが、白く優しく霞んでいく。




180103
Back