もう声なんて聞こえない

 分厚いガラスの向こうに、こちらに足を向けるようにしてヤンが横たわっている。ライトに照らされ、その身体はいっそう青白い。その周りでは医師たちが解剖の準備に忙しく、見慣れぬ機器を手に取っては並べている。こうして目をかけていた後輩が死に、その解剖にさえ立ち会わなければならないというのは、なんという因果だろうか。キャゼルヌは神や悪魔を信じないが、このときばかりは悪魔の存在だけは信じたくなった。
 執刀が始まると、キャゼルヌは正視に耐えず目を背けた。酸く苦い液体が喉の浅い部分にまでせり上がってきた。そもそも後方勤務が中心だった彼は血や臓腑を見慣れない。視界の端に真っ赤な肉の切り口が映ってキャゼルヌはかすかにうめいた。
 意識を過去へ飛ばせば、「先輩」と、ようやく声変わりした少年がキャゼルヌを呼ぶ。二人で重ねた短い月日のことを思えば、涙を堰き止めた目の奥が痛いほどで、こらえきれずにハンカチで目頭を拭った。
 ――ふと、視線が一瞬横にそれた。同じく不正規部隊で最高位の階級を持つ男が隣に立っていたが、その顔を見てキャゼルヌはぞっとした。
 シェーンコップの横顔は、今まさにばらばらにされつつあるヤンの肌のように青白かった。「大丈夫か」と声をかけようとしてあることに気づき、さらに背筋を凍らせた。
 身体の脇で握られたシェーンコップの拳からは、しとしとと血が滴っていた。
「貴官――」
 そこでようやく、シェーンコップの顔に浮かんでいる表情が、激烈な怒りであることに気づいた。
 ヤンとシェーンコップの間になにか細やかな情の通い合いがあっただろうことは、キャゼルヌも勘付いていた。だからといって、ヤンとの昔の関係を盾に二人の間に割って入ることなど、家庭持ちとなったキャゼルヌにはできるはずもなく、濃淡のある嫉妬と、下世話な興味と、幾ばくかの寂しさをもって、二人の関係を眺めていた。
 しかしヤンはフレデリカ・グリーンヒルと結婚した。ヤンとシェーンコップとの間にあったものは、あるいはキャゼルヌの思うような恋愛感情ではなかったのかもしれない。
 一度、ハイネセンでそのことをヤンに問いただしたことがあった。「シェーンコップのことをどう思っているんだ」と大上段から切り込んでも、ヤンは「優秀な部下の一人ですよ」と曖昧に笑って紅茶をすするだけだった。不誠実、という言葉が喉から出かかったが、かつて学校職員の身で生徒と関係を持った自分が言っていい言葉ではないと飲み込んだ。以来、一度もはっきりした答えは得られず、それを得る機会も永遠に失われてしまった。
 検視は順調に進む。細切れにされていくヤンは、愚痴の一つも言わず目を閉じている。医師がなにごとかをカルテに書き留めている。長い長い時間が過ぎた、ように思えた。
「キャゼルヌ閣下、シェーンコップ閣下」
 二人が立ち会いをしていた部屋に、医師が敬礼して入ってきた。
「検視の結果です」
 医師が差し出したカルテをキャゼルヌはかすんだ目で読んだ。出血性ショック死――見ればわかる死因だった。カルテの中では、ヤンは徹底的に散文的なことばに還元されていた。それにあらがうように、その身体がどんな温みをもっていたか、どんな匂いがしたかを思い出そうとしたのに、記憶には霞がかかったようで、どうしても最後には青白い屍体に行き着いてしまう。
 キャゼルヌは眉間を揉んだ。ひどく疲労していた。自分の名前をサインするのもやっとという思いがした。
 シェーンコップも同じようにサインしようとして、血がペンを伝って紙に落ちた。
「おい――」
 キャゼルヌの呼びかけにシェーンコップは振り返った。灰褐色の目には、しかしキャゼルヌの姿は映っていなかった。
 医師を押しのけるようにして部屋を出たシェーンコップを追うことはできなかった。医師はこれからエンバーミングの処置に入ることを説明していた。それらが水の膜を通したように遠いものに感じられた。キャゼルヌも自分を支えるのに精一杯だったのだ。他人のことを慮っている余裕は、今の彼にはなかった。


 絶えず砂が流れていくような耳鳴りの向こうで、ヤンが言う。
(私は君が好きだけど、たぶん君が私を思ってくれているようには君を愛せない)
 それでもいい、と言った。その一瞬だけ、ティーンエイジャーの頃に戻ったような気さえした。恋なのか崇拝なのか、きらめいているのか深く澱んでいるのか、ヤン・ウェンリーに向ける感情は百戦錬磨を自負するシェーンコップ自身でも戸惑いを覚えるようなものだった。抱いた女たちにいた過去の男には何も感じなかったのに、過去に少しだけ関係を持ったというキャゼルヌに対しては嫉妬に似た感情さえ覚えた。
 変わっていく自分は、しかし恐怖ではなかった。ヤン・ウェンリーがいるのなら。
(私のことが好きだなんて、君は変わってるね)
 ベッドの中で、くつくつとヤンは笑った。いたずらがうまくいった子供のように見える笑顔だった。
 そうして数度重ねた肌は温かいのにどこかさらりとしていて、シェーンコップなどには束縛しておけないヤン自身を表しているかのようだった。
 その肌が土気色に褪せ、ただ機械的に分解される対象となるのは、シェーンコップには耐えがたい苦痛だった。
 戦争を厭いながらも、自らが考えた戦術の実行には喜びを覚えるという深刻な自己矛盾を抱え、それをにじませるヤンの言葉に、シェーンコップは己の命を賭けてもいいと思った。
 その言葉がただの物体、なんの温度も実感もないことばの連なり、無意味で無乾燥なものに成り果てるのは、苦痛以上に我慢がならないことだった。シェーンコップがもう少し頭の悪い、自分の感情に酔うような男であれば、検視の場に暴力もって割って入ったかもしれない。だが、たとえどんなものになり果ててもヤン・ウェンリーと呼ばれるものがいる場所で、シェーンコップは醜態をさらすことができなかった。
 爪が食い込んで血まみれになった手のひらを見た。血にまみれた己の手のひらなど見慣れていたが、なるほどキャゼルヌが蒼白な顔をしたのも理解できた。
 自分は今、瀬戸際の場所に立っている。
 手負いの獣が人目を避けるように、シェーンコップは人気のないところを歩いた。と、暗い廊下で、場違いなほど可憐な声がした。薄い紅茶色の髪の少女が、友人らしい少女たちにすがって泣いていた。
「私に何ができるの。私がいったいユリアンに何をしてあげられるっていうの。いったい何が……」
 切れ切れに、そんな言葉が聞こえてきた。シェーンコップは娘に声をかけなかった。
 今すぐにブラスターで頭を撃ち抜くことができない訳のひとつが、少なくともそこにある気がした。ヤンが遺したものは未だ存在し、手助けを求めている。
 なのになぜ、そのヤンがいないのだ。だだをこねるような自身の感情に蓋をして、再び人気の多い廊下に出る頃には、シェーンコップはワルター・フォン・シェーンコップとして望まれるべき指揮官の顔をしていた。そのはずだった。





 ――そして少しずつ、君は疲れていった。壊れていった。キャゼルヌ先輩は強い……というか図太い人だし、癒やしてくれる家庭もあったけど、君はそうではなかった。君はけがをした猛獣が弱っていくように、精神を病んでいった。


 紅い暗闇の先で微笑んでいたのはかつて愛した女の一人、あの少女の母親だったはずだった。それがいつしか血にまみれ、肋骨を覗かせ、臓腑を垂らしたヤンの姿になり、しかしヤンは自身の肉体の凄惨な様子は意にも介さず微笑していた。ヤンの身体はあの日ばらばらにされたときよりもさらに惨いことになっているのに、なぜか醜いと思えなかった。


 ――誤解しないでくれ、君を責めているわけじゃない。失望しているわけでもない。むしろ、君だったらここに来てくれるかと思ってすこしだけ期待していたんだ。
 意外そうな顔をしているね。私がこんなに自分の心の中を吐くなんて思っていなかったんだろう。私も意外だよ。たった一年――一年か。それでも時間の感覚なんてなくなっていてね、業火に焼かれるのも、氷で肉を裂かれるのも、いつしか慣れてしまった。
 こんなところに、フレデリカやユリアンに来られるわけにはいかない。あの二人には天国に行ってもらわなければ。キャゼルヌ先輩もあまり似合わないな。なんだかんだで、まだ気があるのかもしれない。……そんな顔をしないでくれよ。
 ……自分は善行を積んだつもりなのにこんなところに来るのが意外だって?ここに来る人はほとんどがそう言うよ。
 わかっているよ、シェーンコップ。君より、私の方がきっと罪深い。長い間ここにいなければならないのは私のほうだろう。
 その先で待っていてくれ、とは言わないよ。そう、私はこの期に及んでまでこんなにもずるいんだよ。
 シェーンコップ、それでも私は、君と一緒にいられることが嬉しいんだよ。


 シェーンコップは焼け爛れた腕を伸ばしてヤンを抱きしめていた。腐った肉同士が混じり合い体外にあふれ出た臓腑同士が絡み合う。くちづけした唇が爛れて歯が落ちた。とっくに失ったはずの本当の肉体が、何度死んでいてもおかしくないほどの痛みがあった。何度も気を失いかけたのに、肉体がないからそれすら許されなかった。
 くくく、と裂けた喉でヤンが笑った。あたりにひどい臭いの血が飛び散った。


 ――とても、とても、嬉しいんだ。


 けれどそれはまぎれもない、恍惚だった。
 


 


「まさかお前さんまで逝くとはな」
 死体安置所に出向いたキャゼルヌは、冷凍保存されているシェーンコップにそう話しかけた。後事のことをすべて押しつけてくれたな、と恨み言を言うつもりだったのが、シェーンコップの死に顔を見てその気もなくなってしまった。
「ヤンが来たんだな」
 答えはない。キャゼルヌはそっとハンカチで己の目元を拭った。
「正直に言えば、うらやましいと思うよ。だが――」
 まだ自分は死ぬわけにはいかないと、キャゼルヌはそう続けた。
 ふと、一年前のシェーンコップの様子が思い出された。あのとき自分が引き留めて話を聞いていれば、なにか変わったのだろうか、とらちもないことをぼんやりと考えて、やめた。シェーンコップが自分などに胸の内を吐き出すなど、想像さえできないことだった
 今のシェーンコップはうっすらと笑みを浮かべ、うっとりとさえしているようだった。
 なんの苦痛もない世界を、キャゼルヌは思い浮かべた。そこにヤンとシェーンコップは逝ったのだと、そう思った。




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