夢の底にて

 情事のあとの気怠い身体と意識が、現実と夢の境を泳ぐ。まぶたを開けると、薄い明かりの中にヤンの寝顔が浮かび上がっているのが見えた。
 ひどくやつれている、とシェーンコップは思った。肌はかさつき、目の下に走る皺が若く見える顔にはアンバランスだ。目を閉じられさえすればどこででも寝られると言っていたヤンが、今では薬とセックスの力を借りなければ眠れないのだという。その眠りも浅く、悪夢に苛まれることも少なくない。数日おき、妻のベッドから抜けだして途方に暮れたような顔でシェーンコップの元を訪れるヤンを、シェーンコップは拒むことができない。己を苦しめる思慮など捨ててしまえば楽になると思うのに、深い自省も不確かなイデオロギーもシェーンコップが愛する捨て去ることのできないヤンの一部なのだ。思考を捨て己の偶像に酔うだけのヤンを、シェーンコップはきっと愛せない。
 切る時間もない、とぼやいていた伸びかけの前髪に触れた。そこまで近づいてようやく、ヤンの目尻が光っていることに気づいた。
「閣下……」
 抱き寄せようと頭に手を回したとき、小さな呟きを聞いた。
「さみしい」
「ここに来て」
「私のところに来て……」
 その瞬間、全身が痙攣した。暗い視界は自分が目を閉じているからだと気付いた。心臓が浅く早く打ち、額に脂汗が滲んだ。
「やだ。どうしたの、ワルター」
 長いブルネットの女が心配そうにこちらを覗き込んでいる。笑いの消えた真剣な顔を見て、自分はさぞひどい顔をしているのだろうとシェーンコップは思った。理由を話す気にはなれなかった。ベッドサイドに置いたペットボトルの水を飲み干し、息を整えた。
「ねえ、こういうことって何度もあるの?」
 声音から女の優しさは感じたが、シェーンコップは答えなかった。
「聞いたことあるわ。戦争は終わったのに、戦争の記憶に苦しめられている軍人さんは大勢いるって……」
「おれはそれほど柔じゃない」
 口をついて出たのは薄っぺらい虚勢だった。
 あの日、すべてが終わると思った。血の海を見下ろし目を閉じて、このまま目覚めないだろうと思っていたのに、次に見たのは病院の白い天井と、泣きじゃくる娘の姿だった。若く美しい娘が泣いていることそのものには胸が痛んだが、生き残ってしまったことには後悔しか感じなかった。退院してのちも、自治政府に新設される軍の要職のポストへの誘いはすべて蹴った。今では日々は無為に流れていくだけだ。
「一度診てもらったらどう?」
 それが善意から出た言葉だと理性では理解しているのに、脳髄の奥で怒りが発火するのは止められなかった。
「余計な世話だ」
 こわばった顔で目を見開く女を尻目に服を着た。みるみる女の顔に怯えが浮かぶ。
「悪かったわ、ワルター。もう言わないから……」
「そうだろうな、もう二度と聞くこともないだろう。ジェーン、今日まで楽しかったよ」
 シェーンコップは、女の怯えが数秒と経たぬうちに怒りに転ずるのを肌で感じた。女の善意も、所詮はその押し売りにすぎなかったのだ。シェーンコップが喜んで受け取らないとわかると逆上する。呆れるより先に、この程度の女と寝たのか、という虚しさが膨らんだ。
「なによ、それ」
 唸るような女の声は耳障りだった。それから逃れるように歩き出した。シェーンコップの背を罵声が追う。
 ドアが閉まる一瞬耳に入った言葉は、「時代遅れ」だった。 
 ホテルを出たシェーンコップの頬を冷たい夜風が撫でた。歩いて五分もしないうちに、片手から溢れる数の路上生活者を見た。政治と経済の中心の座を奪われ、ハイネセンは衰退していく一方だ。明日の食事にも困る人間が、理想など夢見るだろうか。ヤンの遺志を継いだ者達は必死でこのお情けの自治権しか持たぬ小さな国を維持しようとしているが、止めようもなく崩れていく。さくり、さくりと手のひらで砂を掻き取るように。
 だがそれもシェーンコップには関係のないことだ。故郷はすべて滅んだ。ヤン・ウェンリーはどこにもいない。
 最初に見つけたバーの中に入った。そこにいる誰もが疲れきった顔をしていた。シェーンコップもあるいはその一員なのかもしれない。虚無を埋めるように酒を煽った。味などわからなかった。

 いつ部屋に戻ったのか記憶がなかった。ずきずきと痛む頭を押さえて起き上がった。窓から漏れる朝の光ですら、刺すように目に染みた。ほとんど戻ることのない自室はほこりっぽく、明るい光の線が薄暗い部屋の中にいくつも走っているのが見える。そのうちの一つが、上着のポケットから床に落ちた銃を明るく浮かび上がらせていた。
 ベッドから降りて手にとったのは無意識だった。安全装置を外したのもそうしようと思ってしたことではなかった。それを顎の下に突きつけようとしてようやく、自分が死のうとしていることに気づいてはっとした。
 背中がべっとりと冷たく濡れている。直視しようとしなかった自分の脆さが、今まさに自分を殺そうとしていた。意識することすらなく。
 シェーンコップは頭を振った。安全装置をかけ直そうとしたとき、温かく乾いたものが手に触れるのを感じた。銃を握るシェーンコップの手を包むようにもう一対の手が重ねられている。
「いいよ、シェーンコップ」
 背中から体温が伝わってくる。
「もう、いいんだよ」
 その声は低く穏やかで、背筋が凍るほどに優しかった。振り向くと、ヤンが微笑を浮かべて立っていた。手のひらから銃が滑り落ちた。
「シェーンコップ」
 抱きつかれた拍子に、髪からなつかしい匂いがした。せっけんと陽だまりと紅茶の匂い。シェーンコップの瞳孔が小さく窄まる。あと少しで感情の堰が切られる予感を切実に感じ、脂汗が顎を伝って落ちる。それをヤンの指先がぬぐった。
「一人にさせてしまって、ごめん」
 ヤンの黒い瞳がシェーンコップの憔悴しきった顔を映す。ヤンの指が愛おしげにシェーンコップの頬を撫でる。
「その罪滅しというわけではないんだけど、これからは君と、ずっと」
 瞬きをした瞬間、ヤンの姿は掻き消えていた。温もりすら残っていなかった。そもそもいないはずの人間の体温など、どこに残りようがあるのだろうか。膝から下の力が抜けて、床に崩れ落ちた。
 どれほど呆然としていただろう。ふいに喉が痙攣した。声帯を震わせていたのは笑いだった。獣の哄笑。シェーンコップは腹を抱えて笑い出した。
 さくり、さくりと掻き取られ、崩れていたのは自分の心のほうだった。現実主義者で生きてきた己が、もはや現実すら信じることができなくなっていた。夢は現実に滲みだし、幻はシェーンコップに微笑みかける。自我の輪郭が曖昧に溶けていくのは、生きていながらの死同様だ。
 だが、今までも生きながらにして死んでいたようなものだったではないか。
「そうか、おれはもうあの日からずっと……」
 消えない笑いに引き攣るシェーンコップの背を、ヤンの手のひらがいつまでもいつまでも優しく撫でていた。

 


161011
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