想い出のゆくえ

 夜は子どもの領分ではない。なのにその子どもは本を広げて酒場の隅に座っていた。
 しかしそれを見つけたのもまた子どもだった。灰褐色の髪をした少年は、彼には少し大きすぎる椅子に腰掛け、足をぶらつかせていた。少し離れたところでは、彼の祖父が口髭を生やした男と何事か相談しあっている。他に客はまばらで、皆カードか酒に夢中になっていたから、場違いな子どもたちはさして興味も示されなかった。
「なにを読んでるんだ」
 あまりに退屈だったので、少年はその子どもに声をかけてみた。子どもは本で顔を隠したように見えたが、少年にもタイトルが見えるようにしたのだとすぐにわかった。
「『うちゅうのれきし』」
 少年がタイトルを読み上げると、本の向こう側から、黒い大きな瞳がこちらを見つめてきた。
「おもしろいのか、それ」
「うん」
 本の表紙には、黒いペンで文字らしきものが書いてあった。祖父母に連れられて亡命してきて二年、同盟語の読み書きなら、少年は同年代の子どもたちと同じかそれ以上にこなすことができたが、その文字はどうやら同盟語ではないらしいということしかわからなかった。
「これ、なんて読むんだ?」
「ウェンリーだよ」
「変な字だな」
「むかしの文字なんだって。とーたんがおしえてくれたの。ちゅうごくってところでは、みんなこの字を使ってたんだって」
 どうでもいいよ、と少年は胸の中でひとりごちた。
「ウェンリーって、お前の名前?」
「うん。おにいちゃんのお名前は?」
「ワルター。ワルター・フォン・シェーンコップ」
 少年――ワルターはウェンリーという子どもの隣に座った。床に直接座るなどということは、つい二年前まではワルターは想像したこともなかったのだが、今ではなんのためらいもなくやってのけることができる。不作法な行いを厳しい口調で叱責してきた祖父も、今では擦り切れた服を着て、丸めた背で同盟人にへつらっている。
 冷たい目で大人たちを見やるワルターに構わず、ウェンリーは本を広げるとワルターに青い星の絵を見せてきた。どこにでもある惑星にしか見えなかったが、ウェンリーは熱っぽい口調でまくしたてた。
「あのね、ちゅうごくってね、地球って星にあったの。地球は、“じんるいはっしょうのち”で、いっぱい“国”っていうのがあったんだって。おにいちゃん、地球に行ったことある?」
 地球なら知っている。帝国の領地にある、今はなんにもないつまらない星だ。しかしその“つまらない星”でさえ、今のワルターにはあまりにも遠い。
「ない」
「なあんだ」
 ワルターはそっけなく答えたが、ウェンリーはまったく気にもしていない様子で別のページをめくっている。
 ふと、そこに描かれた絵を見て、ワルターの心臓は跳ねた。子供向けに戯画化されているが、王冠を頂いた大男は間違いなくルドルフ・フォン・ゴールデンバウムだ。
 ワルターは、生まれ育った屋敷の壁の目立つところに皇帝ルドルフの肖像画が飾ってあったのを知っているし、祖父や父がその絵に向かって敬礼している姿も見てきている。しかし同盟ではルドルフは憎むべき悪役で誰も敬いなどしないし、少しでも敬う素振りを見せれば“専制主義者”という言葉と共に憎悪の視線が降りかかってくる。ワルターにはその言葉の意味はまだわからないが、街でも学校でも、ただ“ルドルフの作った銀河帝国”の生まれであるというだけで仲間外れにされ、石を投げられた。悔しくてやり返せばやり返すほど、孤立は深まっていった。
「なんで、そんなつまらない本を読んでるんだ?」
 同盟も帝国も、大人たちは嘘つきだと思った。そんな大人の書いた本を信じるなんて馬鹿だと思った。だから口をついて出たのは、意地の悪い言葉だった。ウェンリーはきょとんとしている。
「本をいっぱい読んでおべんきょうしたら、頭がよくなるでしょ?頭がよくなったら、いっぱいお金をかせげるんだって、とーたんが言ってたよ」
「なんだそりゃ……」
 卑しく働いて金を稼ぐのは平民の仕事だとワルターは教えられてきた。こちらに来て祖父が“卑しく”金を稼いでいる姿を見てきたから、今でもそう信じているわけではなかったが、さすがにここまで金のことしか考えていないと少し呆れてしまう。
「なにをお話してるんだ?ウェンリー」
「とーたん」
 ワルターの祖父と話していた男が、ウェンリーを抱きかかえた。男は人好きのする笑みを浮かべて、ワルターに片手を差し伸べてきた。
「シェーンコップさんのところの坊やだな。君のお爺さんと話はついた。ハイネセンまで、しばらくは一緒に旅をすることになる。うちの坊主は変わり者だが、仲良くしてやってくれると有り難いな」
 ワルターは男の手を握り返さなかった。祖父がなにか言うのも聞かず、酒場を飛び出した。その背を無邪気な声が追う。
「またね、おにいちゃん」
 外には星空が広がっていた。旅。また宇宙船に乗ってどこかへ行くのだろう。ふいに、帰りたいという気持ちが蘇ってきて、あっという間に星はゆがんで見えなくなった。


 ワルターとその祖父母を船に乗せたヤン・タイロンという男は、亡命者を亡命者であるというだけで差別はしなかった。それどころか、ワルターが彼の息子の3つ年上だと知るや、ワルターに子守を丸投げしてしまった。それじゃあ彼はなにをしているのかと訝しんだワルターがこっそりとタイロンの部屋を覗くと、彼はワルターの目にはがらくたにしか見えない壺や皿を大事そうに磨いていた。
 壺や皿より大事にされていないらしいウェンリーは、得意顔でワルターに船の中を案内してまわった。知らない船の中を探検するのは、ワルターにとっても楽しかった。なによりここには陰口を叩いたり、嫌がらせをしてきたりする連中がいない。船員たちは皆船長の息子であるウェンリーを可愛がっていたし、そのお守りをしているワルターにも優しかった。けれどワルターは、大人たちに可愛がられてにこにこ笑っているウェンリーを見ると、ときどきひどくイライラした。だからといって辛く当たると大人たちが黙っていないだろうと思って、ウェンリーのお守りを引き受けた。
 しかし一緒に遊ぶにつれ、ウェンリーが天才的にごっこ遊びがうまいことがわかってきた。二人はウッド提督とその部下になって宇宙海賊を撃退し、かと思えば義賊になって宝物庫に忍び込んで宝物を盗みだし――入ってはいけないと言われていた貨物室で散々遊びまわったので揃って叱られたが――、紙や布で宇宙怪獣になりきっては廊下を歩く船員を笑わせた。
「怖いと思ったのに」
 笑う船員を見て、ウェンリーは不満そうに頬を膨らませた。
「誰がピンクと黄色のしましまの怪獣なんか怖いと思うんだよ。だからおれが言ったとおり、黒にしておけばよかったんだ」
「しましまだって、怖いもん」
 ウェンリーは怪獣のお面を付け直すと、「がおー」と叫びながらワルターにじゃれついてきた。思いの外その力が強かったので、ワルターはよろけて壁に頭をぶつけてしまった。ムッとしてウェンリーの身体を強く押すと、ウェンリーはころんと簡単に床に転がった。あ、と思った時には、大きな黒い瞳は涙でいっぱいになって、あっという間に溢れてしまった。
「お前が急に飛びついてくるからだろ!」
 慌てたワルターはそう言ったが、逆効果だった。ウェンリーは声を上げて泣き始めた。
「知らない、かってに泣いてろ!」
 部屋に戻って祖父母の顔を見るのも嫌だったので、廊下に積まれた荷物の影にうずくまった。遠くで大人たちがなにか話しているのが聞こえる。急に怖くなった。どこかの星で、この船を追い出されてしまうかもしれない、と思った。やっぱり亡命者だから、と言う声が聞こえた気がして、握った拳が白くなった。
 どれほどの時間が経っただろう。ひょっこりと、荷物の向こうからウェンリーが現れた。
「おにいちゃん……」
 ウェンリーは不安そうに服の裾を握っていた。目は赤く、頬にはまだ涙の跡がある。
「おにいちゃん、おこってる?」
 怒ってると言おうとしたけれど、そう言うとあまりにもウェンリーが可哀想だと思ってやめた。
「とーたんが、おにいちゃんをびっくりさせて、ごめんなさいってしなさいって……」
「別にいいよ」
 自分が悪者のような気がして居心地が悪くなった。
「おにいちゃんが、ぼくのこときらいになって、どこかいっちゃうんじゃないかって」
 再びウェンリーの目に涙が溢れる。
「かーたんも、とおくのとおくのお星様になっちゃって、もういないの。おにいちゃんもいなくなっちゃったら、やだっておもって……」
 ワルターはドキリとした。ウェンリーは大人たちに愛されて、なにも嫌なことがないのだと思っていたけれど、そうではなかったのだ。
 泣きじゃくるウェンリーの頭を撫でた。黒い髪は柔らかくて気持ちがよかった。
「おれも、もう母上に会えない」
「しんじゃったの?」
「ちがう……けど、もう会えない。ずっとずっと遠くにいて、会えない」
「どうして、会えないの?」
「おれが“亡命”したから。おれが帝国人じゃなくなったから……」
 言葉に出すと目頭が熱くなって、慌てて袖で目をこすった。
「泣いてるの……?」
「泣いてない。おれはお前よりお兄さんだから、泣いたりしない」
 ワルターはウェンリーの手を握った。ふわふわと柔らかいその手は温かかった。守ってやらなければ、と強く思った。
「一緒にもどろう」
 ウェンリーは頷いた。その日から、二人は一緒のベッドで眠るようになった。


 別れは思いの外早くやってきた。ハイネセンの軌道に入り、船員たちの動きも慌ただしくなってきたのを肌で感じた。同時に、いつもワルターにくっついていたウェンリーの姿が見えなくなることが多くなってきた。自分に隠れてなにをしているのかと聞いても、ウェンリーは「ないしょ」と言って答えてくれなかった。それがワルターには不満だった。
 船は何事も無くハイネセンの宇宙港に着陸した。あまりにもあっけなくて、いっそ事故が起きればよかったのに、とワルターは思った。
 タラップが降りても、祖父母はタイロンに向かってしきりに頭を下げ続けていた。その姿から目をそらすと、タイロンの足元に隠れていたウェンリーと目が合った。
「ほら、ウェンリー。お世話になったお兄さんにお礼を言うんじゃなかったのか?」
 父親にそう促されて、ウェンリーはおずおずとワルターの前に歩いてきた。ぐい、と背中に隠していた手を前に出す。手のひらの上には、紙粘土で作った指輪が乗っていた。お世辞にも器用ではないウェンリーが作ったものだから、不格好で、色もあちこち剥げていた。
 もじもじとしていたウェンリーは、意を決したように背筋を伸ばして言った。
「今日はお別れだけど、おにいちゃんが大人になったら、ぼくのことおよめさんにしてください」
「お嫁さん!?」
 驚いたのはワルターだけではなかった。彼の祖父母も面食らっている。
「馬鹿だな、男が男のお嫁さんになんかなれるわけないじゃないか」
 ワルターがそう言うと、ウェンリーは頬を真っ赤にした。
「なれるもん!なれるってとーたん言ってたもん!」
 ね、そうだよね、とウェンリーに言われて、タイロンは口髭を撫でた。
「ここは自由の国だからな。なろうと思えば、なれるんじゃないか?」
 ウェンリーはにっこりと笑った。ワルターはなにを言ったらいいかわからず、いびつな指輪を受け取った。輪は指が二本は入ってしまうほど大きくて、思わず笑ってしまった。
「わかった。ウェンリーが大人になったら、迎えに行く」
「うん」
 ワルターはポケットを探った。指先が硬い感触を捉える。古い小さな銅貨を取り出して、ウェンリーの手のひらに乗せた。
「指輪じゃないけど、それやるから、大人になるまで大事にしろよ」
「うん」
 頬に柔らかいものが触れた。ウェンリーがキスしてくれたのだとわかって、嬉しいような恥ずかしいような気分になった。
「またね、おにいちゃん」
 宇宙港のロビーでウェンリーと別れた。小さな姿が見えなくなるまで、何度も何度もワルターは後ろを振り返った。宇宙港を出ても、まだそこにウェンリーがいる気がしていた。だから、宿に着いて一人のベッドに潜り込んだとき、ウェンリーと本当に別れたのだと知って、涙が後から後から溢れてきた。
 一日だって早く大人になりたいと思った。大人になって、ウェンリーにもう一度会いたかった。


***


「あれ?」
 ハイネセンの官舎からイゼルローン要塞へ引っ越すにあたって荷物を整理していたヤンは、古いアルバムの隙間からなにか小さくて硬いものが落ちたのに気づいた。
「帝国マルク銅貨じゃないか。それも今は使われてない古いものだ。どうしてこんなところに……」
 ヤンの作業する手が止まったのを目ざとく見つけたユリアンが、ヤンの手元を覗き込んできた。
「あれ?本当ですね。提督の持ち物ですか?」
「いや、どうだったかな……」
 ヤンは顎に手を当てて、記憶の書架を奥へ奥へと進んでいく。埃をかぶり、どこになにがあるかもわからなくなった場所に行き着いたところで、一人の少年の姿を思いだした。
「私がほんの子どもだった頃、これをくれた子がいたんだ」
「ご友人ですか?」
「うーん……なんだか、船の中で一緒に遊んだり叱られたりした記憶が、あるような、ないような……」
「随分曖昧ですね」
「なにせ、もう20年以上前のことだからなぁ……」
 まじまじと、銅貨に鋳出された帝国のはるか昔の貴族の横顔を眺める。ヤンが引越し作業のことを忘れて思索の海に沈んでしまったことを悟ったユリアンは、ヤンの代わりにアルバムの一冊を手にとった。何気なくページを開くと、宇宙船の中と思われる立体写真が浮かび上がった。そこには幼いヤンと一緒に、いかにも聡そうな顔をした少年が写っていた。
「提督、この子じゃないですか?」
 ユリアンと共に写真を見たヤンが、「あ」と声を上げる。
「そうだ、思い出した。ほんの少しの間だけだったけど、船に乗っていた老夫婦の孫で、私の面倒を見てくれた子がいたんだ」
「じゃあ、やっぱりその銅貨は、その子がくれたものなんですね」
「きっとそうだ。たしか、なにか約束をしたような気がするんだけど……」
 ヤンは頭をかいた。ふいに、その手が止まる。みるみる、頬が赤くなる。
「……私はその子に、大人になったらお嫁さんにしてほしいから迎えに来てくれと言ったような……」
「男の子にですか!?」
「うん、まあ、そうなるね……」
 ユリアンは考え込んでいる。幼児の頃とはいえ、我ながら大胆なことをしたなあ、と恥ずかしいやら感心するやらで、ヤンは髪をかき回した。
「……もし、その人が大人になってもその約束を覚えていて、ヤン提督をお迎えに来たらどうします?」
 そう尋ねるユリアンの口調があまりにも大真面目だったので、思わず笑ってしまった。
「さて、どうしようかな。酒飲み仲間にでもなれたら、上々かもしれないね」
「そんなものかなあ」
 あまり納得がいっていない様子で、ユリアンはアルバムの整理を再開した。ヤンも銅貨をポケットに仕舞い、ユリアンにならって仕事にとりかかった。
「でも、もしかすると、その人は案外すぐ近くにいるのかもしれませんね」
「縁は異なもの味なもの、とも言うからな」
「また会えるといいですね」
「そうだね」
 立体写真の中で笑う少年たちの顔を見て、ヤンは微笑した。かすかに過ぎった既視感はあまりにも曖昧なもので、ヤンの意識に上ることはなかった。




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