シェーンコップは花束を持って古風な石造りの階段を上っている。木々の間からオリーブ色の外壁が姿を現した。一息に階段を上りきれば、警護に当たっていた元薔薇の騎士の隊員が敬礼してくる。敬礼を返し、木に囲まれたこぢんまりとした建物に近づいた。
ここはキャゼルヌの旧知が経営している古い療養所だった。ヤンの身の安全を確保しつつ治療に当たる際、どこが最適かずいぶん相談した結果ここに落ち着いた。建物自体は古いが設備が最新であること、二四時間体制できめ細かな看護が可能であること、スタッフの身元が全員明らかであることなどが理由に挙げられた。
シェーンコップの目には、一見のどかにみえる風景のあちらこちらに警護の人間が立っているのがわかる。そのうちの一人、玄関に立っていたリンツが敬礼する。
「おや、花ですか」
「花を見るのは初めてか?」
シェーンコップがからかうと、リンツは苦笑した。
「よく絵の練習に花を描いたものです。いえ、そういうわけではなく、花はもう――」
玄関のドアが開き、紅茶色の髪が陽光に輝くのを見た。少女と女の間ほどの年齢の彼女の腕には、紙に包まれた枯れた花々があった。
「これはフロイライン、奇遇なことで」
カリンは形の良い鼻をつんと跳ね上げた。
「別にあなたに会いに来たわけじゃないわ。ユリアンとフレデリカさんの代わりに来て、花を替えたの。おあいにく様ね」
カリンの言葉は刺々しかったが、とげの内側に以前にはない親しみのようなものがあるのをシェーンコップは読み取っている。
「さっさと会いに行ってさしあげたら?」
そう言ってカリンはスカートの裾をひるがえして早足で去って行った。シェーンコップは肩をすくめ、リンツの脇を通って院内に入った。
玄関にも廊下にも、たっぷりと陽の光が入るようになっている。テラスで何人かの老人たち――皆かつては名のある政治家や軍人だった――が陽に当たっているのを見ながら病室へと進んだ。
ヤンにあてがわれているのは建物の角にあたる、窓から手を伸ばせば木々に触れられるような部屋だった。秋には視界いっぱいが赤く染まるだろう。
ヤンはまだ眠り続けている。果てのない、おそらく夢もないだろう眠り。長く伸びた髪が年月の経過を――といってもあの戦いが終わって一年しか経っていない――明らかに示している。
シェーンコップ自身、一度は生死の境をさまよった。ブリュンヒルト艦内において、背中に深々と戦斧をうけ、なぜまだ生きているのか不思議だと目覚めたとき軍医に言われた。シェーンコップには理由がわかっている。ヤン・ウェンリーがまだこの世界にいるからだと。もしヤンがあの事件で還らぬ人となっていたら、おそらく自分は死を選んでいただろう、と。
あまりにもロマンチストが過ぎるだろうか?
シェーンコップは口元だけで笑う。そしていっそう痩せたヤンの姿を見てそれを消した。生き延びさせるだけならば、あと五年は可能だと言われた。しかしその間に目覚める可能性となると、医者たちも口をつぐむ。文字通り〝奇跡〟を待つしかない。ただ待つことはシェーンコップの性に合わなかったが、まさかキスで起きるなどというおとぎ話さながらの奇跡などあるわけもない。
現実はいつも散文的だ。だがそこでヤン・ウェンリーが戦っていると、生まれ変わったようにおもしろくなった。命を賭ける価値があるものに変わった。思春期の少年めいたあこがれ、ならばやはり〝恋〟と呼んでも差し支えないのかもしれないが、無邪気にこれは恋だと信じるにはシェーンコップは恋もしすぎたし年も取り過ぎている。
窓際に置かれた白い陶器の花瓶にはカリンが替えた花が飾られてあって、シェーンコップが持ってきた花のためにもう一つ花瓶が必要だった。どこかに使われていない花瓶はないかと部屋を出ようとしたとき、ふと違和感に気づいて足を止めた。
ヤンのまぶたは開き、夜の欠片ともいうべき黒々とした瞳が姿を現していた。乾いた唇が、何か言いたげにもぞ、と動く。
シェーンコップは花束を取り落とした。花瓶のことを、彼は忘れた。すぐに医師と看護師が呼ばれ、少ししてユリアンが呼ばれ、もう少ししてキャゼルヌ、アッテンボロー、フレデリカの三人が呼ばれた。
病室の中では検査が行われており、ユリアンがそれに立ち会っている。大人たち四人は廊下で吉報を待っている。
今はそれぞれ立場が違う四人である。ヤンを思う気持ちにも、微妙な色彩があり濃淡がある。キャゼルヌは平時には年の離れた妹を見るようであったし、アッテンボローは姉たちに向けるものとは明らかに違う憧憬を向けていた。フレデリカもそもそもは強いあこがれから彼女の副官として務めてきた。そのどれにもシェーンコップはわずかばかり共感しつつも、一歩か二歩退いて見ている。
と、ユリアンがドアを開けて姿を見せた。もともと白い顔が、いまはむしろ青白い。
「ヤンは」
キャゼルヌが一歩先に出る。ユリアンはわずかに躊躇して、言った。
「お目覚めにはなりました。なりましたが――」
「後遺症が」
「はい。なにも覚えていないそうです」
ユリアンの脇を通り、先に部屋に入ったのはキャゼルヌだったかシェーンコップだったか。
「ヤン。俺がわかるか」
「……」
ベッドを覗き込むようにしてキャゼルヌがヤンに声をかける。そのときヤンの瞳に走ったのは、確かに怯えだった。医師が「あまり刺激しないようにしてください」とキャゼルヌをベッドから穏やかに引き離した。
目眩のようなものを、シェーンコップは感じていた。青い天蓋ががらがらと崩れていくような錯覚。
ヤンはアッテンボローの顔を見ても、フレデリカの顔を見ても怯えたようなそぶりを見せるばかりで芳しい反応はなかった。おそらくユリアンに対してもそうだったのだろう。一時は蒼白な顔を手でおおっていたキャゼルヌも、今は立っているのもやっとというようなユリアンをなだめるようにその肩に手を置いている。
ひどく喉が渇いていた。指先が震えているのを、違うと否定しても感じている。
どんな血と臓物の海でも歩みを止めなかった男が、一歩踏み出してベッドのそばに寄ることができない。
「大丈夫ですか」
アッテンボローの声で目眩が少しばかり遠のいた。
無言のうちに促され、ヤンのベッドを覗き込んだ。その痩せた白い顔にあるのは確かにヤンの瞳だったが、静かな星の輝きにも似た知性のきらめきは完全に失われ、石炭の一片がはめ込まれたようにしか見えなかった。
「閣下……」
シェーンコップは目を閉じた。
もしもヤンが目覚めることがなかったら、もしも目覚めてもシェーンコップを必要としない状態ならば、ハイネセンを去ろうと漠然と考えていた。その考えがいま、胸の中で確かな質量をもってのしかかり始めている。
悲痛な沈黙が部屋を満たす。剛毅で優雅な猛獣にも似た男の消沈ぶりに、誰もが言葉をなくしている。
ここを去ろうと思った。ただ変わり果てたヤン・ウェンリーから逃げているだけだと誹る声も内心にはあったが、それ以上にシェーンコップの心そのものが悲鳴を上げている。
上体を起こし、きびすを返してドアへ向かう。
「待ってください、シェーンコップさん」
ユリアンの声も無視して進もうとした。
「ヤン提督が」
振り返る。ヤンの枯れ枝のような腕がわずかに持ち上がり、たしかにシェーンコップのほうに伸ばされているのを見た。
「なにか仰ってるんですか」
ユリアンがベッドに駆け寄り、ヤンの口元に耳を寄せた。
シェーンコップは動くこともできず、その場に立ち尽くしていた。
幾ばくかの静けさののち、ユリアンは自信なさげに口を開いた。
「〝行かないで〟……?」
その言葉に、シェーンコップは電撃を受けたようになった。息ができず、こめかみを冷たい汗が伝う。
「たしかにそう言ったのか、ユリアン」
キャゼルヌがユリアンに詰め寄る。ユリアンは首を振った。
「そう聞こえた気がしただけです。はっきりとは……」
行かないで。もしその言葉が本当にヤンが言ったことならば、それは何にも勝る呪いだ。シェーンコップは現に身動き一つ取れない。
「シェーンコップさん、もう少し、ヤン提督のおそばにいてさしあげてください。どうか……」
ユリアンにそう言われると、否とは言えず、歩いている自覚もないままベッドのそばに戻ってヤンの手をおそるおそる握った。骨が浮き、シェーンコップが少しでも力を入れれば砕けてしまいそうなそれは、しかし、たしかに温かかった。
ユリアンが別室に移り、医師から今後の治療方針について聞いている間も、シェーンコップはずっとヤンの手を握り続けていた。
*****
そこにいるのは、シェーンコップが忠誠を誓ったヤン・ウェンリーではない。おそらく。けれどハイネセンを離れようという考えはシェーンコップの無意識に沈んだ。
やがて食事を摂れるようになり、ヤンの体力が回復していっても、外界に対する反応は乏しいものだった。けれどあるときから、いくぶん丸みを取り戻した頬に笑顔らしいものが浮かぶようになった。
シェーンコップの大きな手に触れ、ヤンは喃語のような声を発して笑う。
「シェーンコップさんが来てくださって嬉しいんですね?」
ヤンはそのユリアンの、少しばかり悋気を含んだ言葉に応えは返さないけれど、その顔を見ていればおのずと明らかであるように思われた。
そういうとき、シェーンコップはどういう反応をすればいいかわからなくなる。喜べばいいのだろうか? シェーンコップが崇拝してやまない、あの銀河に二つとない知性が失われたがゆえの笑顔だというのに? しかし悲しむのも場違いであるような気がして、曖昧な表情のままヤンの手を握り続ける。反対側の手を、ユリアンが握っている。
「明日はキャゼルヌさんが来てくださいますよ」
ヤンのもとにいた人々はほとんどがそれぞれの戦後処理、もしくは新しい政府での役職を持っていたから、ヤンの病室を訪れるのは入れ替わり立ち替わりになる。ユリアンだけが、キャゼルヌやアッテンボローに勧められ、彼らの補佐役を辞してヤンの世話に専念しているから、毎日病室にいる。シェーンコップにも自衛組織を新設するにあたって協力してほしいという話が来ていたが興味は薄く、ヤンが目覚めてからはいっそう関心を失っていた。
それが誰であっても、ヤン以外の命令を聞くなどシェーンコップは御免被りたかった。けれどヤンは二度と軍人には戻れないだろう。どころか、独りで生きていくことさえ不可能だ。無力な存在に成り果てたかつての上官にのみ意識は向いて、ほかのことはシェーンコップの網膜の上で焦点を結ばない。
女たちは、シェーンコップの心を少し慰めもした。けれどうっかり黒い髪と黒い目の女とベッドを共にしてしまうと、かつてのように短く切られたヤンの髪や、あの無垢を通り越して空虚でさえある目つきや、言葉以前の声しか紡がぬ唇ばかりを思いだし、女の姿が消えていく。いや、女は誰もがヤンの姿を二重に映し出し、ふっくらした乳房や二の腕や腿に、痩せ細った身体の影を見せつける。そうして別れた女は一人や二人ではなかったように思う。
ここまで重症だったとはと自嘲しつつ、あなたには私が必要なのですかと心の中で問うのをやめられない。たとえ口に出したとしても、きっとその問いに答えはない。シェーンコップの手を握り返すかすかな力や、確かな温かさは、答えになるだろうか。
――ささやかな安寧のうちにやがて夏が来て、ヤンはまた少しだけ体力と言葉を取り戻した。
ある日シェーンコップが病室を訪れると、ヤンはベッドの上で上体を起こしてユリアンの差し出す林檎を食べていた。しゃくしゃく、と小さく切られた林檎を咀嚼し、飲み込み、またかすかに口を開ける。その様は親に餌をねだるひな鳥を連想させる。と、黒い瞳と視線が合った。ヤンが「あ」と声を上げる。
シェーンコップがベッドに近づくと、ヤンは抱擁を求めるように手を伸ばしてきた。こんなことは今までになかった。ユリアンも、シェーンコップも言葉を失っている。思わずユリアンの顔を見た。ダークブラウンの瞳が戸惑いに揺れる。
シェーンコップは後ずさった。ヤンの手が中空で揺れ、ぱたりと下ろされる。黒い瞳が、とても悲しそうにシェーンコップを見つめている。
「少し、よろしいですか」
椅子をかたんと鳴らして、ユリアンが立ち上がった。シェーンコップがそれを視線で追う。
「廊下でお話しましょう」
ユリアンはうつむくヤンをベッドに横たえ、部屋を出た。青年のあとを追い、廊下に出た。
シェーンコップは壁にもたれかかり、自分のほうを鋭い視線で見ているユリアンに視線を返した。ユリアンはしばらく言葉を探していたが、意を決したように切り出した。
「ずっと考えていました。どうしてヤン提督がご結婚なさらなかったのか」
「あの人に釣り合う男が、そういるとも思えんがね」
「ええ……。ですが、ヤン提督の気持ちは決まっていたんです。あなたに……」
悔しさをにじませてユリアンが言う。意地の悪い気分になって、思わず訊いていた。
「根拠は?」
「あの日、皇帝ラインハルトとの二度目の会談に向かわれる前の夜、ぼくに話してくださいました」
意外な答えに、シェーンコップはすぐに言葉を返せなかった。
ヤンから好意らしいものを向けられていることは、薄々気づいていた。それをヤンがもてあましていることも見てわかっていた。シェーンコップがもう少し強気に出ていれば、ヤンはあっけなく白旗を揚げていたという可能性もあった。過去の話だ。
「〝帰ってきたら、シェーンコップにプロポーズするつもりだ〟と……本当はバーミリオン会戦の前に言うつもりだったらしいんですが、勇気が出なかったそうです。お父上を亡くされたフレデリカさんを一人にもしておけなかったから、ハイネセンではフレデリカさんと暮らしていたそうですが……」
自分の迂闊さを、意気地のなさを、シェーンコップは呪った。
「だからシェーンコップさん、ヤン提督には、どうか優しくしてさしあげてください。きっとどこかで、あなたのことを覚えていらっしゃるんだと思うんです」
そう言うとユリアンは手の甲で目元を拭って、シェーンコップに一礼して去って行った。これだけのことを口にするのに、ヤンのことを憎からず想っているユリアンはどれほどの苦痛を覚えただろうと、青年の勇気に新鮮な感動を覚える。それに引き比べて、自分はどうだ。
ヤンを、崇敬の対象ではあるが性愛の対象ではないと思いたかった。それは欺瞞に過ぎなかったのだろうか。ヤンを仰ぎ見るばかりで、等身大のヤン・ウェンリーと向き合おうとしなかったのだろうか。どのみち、臆病者だ。
果たしてこれは、恋と呼べるのだろうか? いつか発した問いを繰り返す。
部屋に戻ると、ヤンは珍しく激しくぐずっていて、ユリアンが懸命になだめていた。
「閣下」
顔じゅう涙でぐしゃぐしゃにしたヤンがこちらを見て、また泣き出した。ヤンが涙を流すところなど、シェーンコップは見たことがない。幼なじみだというある議員が惨い死を遂げたときでさえ、サングラスで目元を隠し誰にも動揺を見せなかった。思えばヤンは、烈しい感情をほとんど表に出さなかった。指揮官として表に出すべき感情とそうでないものを心得ていた。だから初めて目にするヤンの涙で、童女のような嗚咽で、シェーンコップの心臓は直接揺さぶられるような嫌な鼓動をする。
それをできるだけ表情に出さないようにしてベッドの脇に寄り、ユリアンと場所を入れ替わるようにしてヤンに顔を近づけた。
「あまりユリアンを困らせてはいけませんよ」
ひく、ひっく、とヤンはしゃくり上げる。びしょびしょに濡れた頬に手を添えた。
「うぇ……」
前髪をそっとかきわけて、額に唇を押しつけた。ヤンはきょとんとしてシェーンコップを見ている。
「わかりますね?」
透明な瞳がシェーンコップをとらえている。こんな目をするのはもはやヤンではないという拒絶と、どう成り果ててもヤンはヤンだと、人目もはばからず抱きしめたいという衝動に、引き裂かれる。
「ごめん、なさい」
その口調はつたなくあどけない。何度もヤンの髪を撫でた。
「あした、……」
「明日?」
何度か聞き返したが後半が聞き取れず、またユリアンと立つ場所を入れ替わった。ユリアンはヤンの唇に耳を寄せ、うなずいた。
「〝明日も来てくれる?〟だそうです」
「ええ。必ず来ますよ」
ようやくヤンは笑顔を見せたが、シェーンコップはそれを直視できなかった。
それから次第にヤンはシェーンコップに懐くようになった。それが本当にヤンがかつて抱いていた自分への好意によるものなのか、父親の類いと誤認しているのかは、シェーンコップには判断がつかなかった。父親と思い込むならば、キャゼルヌのほうがよほどありそうなものだと思うのだが。
シェーンコップが病室を訪れると、ヤンは嬉しそうに笑う。恐ろしいことに、ヤンが屈託なく笑うのにもいつしか慣れてきて、ついぞこの人の心からの笑顔を見たことがなかったと思いながら、シェーンコップは身体を締め付けることのないゆるいワンピースを着たヤンを抱き上げる。シェーンコップほどの力があれば軽々と上がってしまうほど軽い。ころころと笑う様は本当に子供のようだ。
シェーンコップがヤンをかまっている間に、ユリアンが家から持ってきたシーツを替える。それがいつしか日常になっていた。
椅子に座り、ヤンを膝に乗せたまま、ユリアンがてきぱきとベッドメイクを済ませていくのを眺めていた。
記憶にあるヤンの横顔は、いつも陰りを帯びていた。生きていくために人を殺し続けてきて、これからも殺し続けなければならないことを自覚している者の顔だった。あるいは養子のユリアンや友人のフレデリカの前ならば、もっと和らいだ表情もしたのかもしれないが、シェーンコップの前ではヤンはそこまで安らいだそぶりを見せたことがなかった。
本当は見たかったのかもしれない、と自分の心という井戸を覗き込む。けれど、そのためにすべきことをなにもしてこなかった。ワルター・フォン・シェーンコップにあるまじき失態だ。だがそれらは過去に属することで、今さら変えようもない。
今、シェーンコップの腕の中にはヤンがいる。このヤンにもはや苦悩はない。快と不快の区別と、ごく単純な喜怒哀楽と、断片化されて意味をなくした記憶たちだけが、かつて銀河に二つとないものが巡らされていた脳髄に詰まっている。
「幸せですか」
ヤンは黒い瞳をまるく開いたまま、シェーンコップをじっと見つめた。
「ひあわひぇ?」
たどたどしい口調でシェーンコップの言うことを真似る。シェーンコップは、ふ、と緩んだような息をついた。
「いえ、こちらの話です」
視界の端で、ユリアンが目を擦っているのが見えた。
「……少し、外に出てくる」
「あ……はい」
少しばかりうつろなユリアンの返事を聞きながら、部屋に置いてあった車椅子にヤンを座らせた。大怪我と寝たきりで弱った脚で、まだ歩くことができない。外出が楽しいのか、ヤンは楽しそうに目を輝かせている。
裏口から外に出ると日差しが目に入った、日なたにいれば汗がにじむが、風の通る日陰は涼しかった。庭というよりは森に囲まれた小さなスペースといった風情の場所だったが、大きな木とその影もあり、ときどきここに来てヤンに外の空気を吸わせるのだった。
木にもたれかかるようにして腰かけ、膝の上にヤンを載せた。見上げると、木の葉の隙間から青空がこぼれているのが見える。風は穏やかで、物音ひとつしない。こうしていると、つい最近まで戦乱の中心に身を置いていたのが嘘のようだ。
ヤンはうとうととまどろみ始めている。唾液が伝ってシェーンコップのシャツを汚した。苦笑しながらハンカチを取り出し、ヤンの口元を拭ってやった。
いつまでこんな日々が続くんだろうか。ふいにそんなことを考えた。それは〝いつまでこんな日々が続くことが許されるのだろうか〟という、どこか罰を待つ感覚に近い。
ヤンをいつまでも入院させておくにもコストがかかる。家に帰るとして、誰が引き取るのか。やはりユリアンが引き取るのか。いっそ二人で遠い星に逃げてしまおうかと、らちもないことを考えて、いっそう苦笑いを深くしてかぶりを振った。シェーンコップとて仕事をして金を稼がなくては生きていけない。こんな状態のヤンを慣れぬ土地で一人残して出かけるなどまともな発想ではない。
らしくもないことばかりが浮かぶ。自分は相当に参っているのだろうと冷静に分析しながら、平穏な泥のようなヤンとの日常に溺れている。溺れて、シェーンコップ自身も正気を失いかけている。
ヤンの淡い色のワンピースの下には普通女性が身につけているような下着はない。肉が削げてもなお柔らかさを残す膨らみがそのまま目に入る。それをそっと手のひらで包んで揉むと、ヤンがくすぐったそうに身じろぎした。
「ン……」
ヤンの唇は締まりなく開かれたまま、中からちろちろと桃色の舌が覗いている。シェーンコップはひりつくような喉の渇きを覚えた。
「――――」
ヤンを草の上に横たえ、その上に覆い被さった。乳房を揉みしだきながら、唇を重ねようとした、そのとき。
「シェーンコップ?」
はっきりとした発音で、ヤンは確かにそう言った。シェーンコップは耳を疑った。
「閣下?」
一瞬、ヤンの瞳の中に知性らしいものがきらめいた。「私、どうして――」言いかけて頭を抱えて激しく呻きだし、次に涙と唾液に濡れた顔でシェーンコップを見上げたときには、目の中には動物的な怯えしか残っていなかった。
シェーンコップはヤンを抱き上げようとして、その手ががたがたと震えていることに気づいた。
幻だったのだろうか。あの一瞬、たしかにヤンはかつてのヤンらしい意識を取り戻したかのように見えた。
しゃくり上げるヤンを抱きしめ、震える手で骨の浮いた背中を撫でた。風はいつしか木立を鳴らしていた。ざわざわと、それは胸のざわめく音だった。
ふいにがさりという騒がしい音、森の中で誰かが強い口調で話す声がした。シェーンコップは音に向かってヤンをかばうように片膝を立て、耳をそばだてた。
「いるんだろう、ここに、ヤン・ウェンリーが」
茂みの中からあらわれたのは、ラフなスーツ姿の痩せた男だった。それを二人の元薔薇の騎士の隊員が押さえ込んでいる。
シェーンコップの背後で、ヤンが露骨に怯えるのがわかった。
「ああ、やっぱりいた。どうか話を聞かせてください。英雄は今どこで何をしているのか皆聞きたがっていますよ。どうか、一言でいいから――」
「いい加減にしろ!」
「そこにいらっしゃるのはシェーンコップ元中将ですね? お二人のご関係は……」
「いい加減にしろと言ってるだろう!」
男は隊員の一人に引きずるように森の中へ連れて行かれる。残された隊員が「我々の手落ちです。大変申し訳ありません」とシェーンコップに敬礼した。シェーンコップがさっさと行けと顎で示すと、彼も森へ消えていった。
「……ひっ、っ」
ヤンはひきつり、泣くことさえできないほど怯えているようだった。抱きしめて何度か背を撫でてやると、ようやく元の呼吸を取り戻した。
顔も忘れてしまったジャーナリスト崩れの男への憎悪を抱くと同時に、自分でも意識していなかった、英雄ヤン・ウェンリーを求める有象無象の人々への言いようのない憎しみが募っていった。ヤンを固く抱きしめ、虚空を睨みつけた。