『white』
明日からの行軍訓練に備えて荷造りするようにと命令された夜だった。読書にあてられる少ない自由時間がつぶれたことに内心文句を言いつつも、明日からは読書どころではないなと思って、ため息をついた。まさか一年目で雪山を歩かされるとは考えてもみなかった。
と、荷造りするヤンの手元を相部屋のラップが覗き込んでくる。
「荷物、少ないな」
「〝手ぶらのヤン〟だからな」
ヤンはそっけなく返した。
ラップは親が送ってくれたセーターも入れているから荷物はパンパンに膨れ上がっている。一方のヤンは支給された最低限のものしか持って行かないから妙に軽い。
「支給品と給料で買った服を合わせてもこんなもんさ」
「ヤンを見てると、おれは案外荷物持ちだったのかと思うよ」
ラップは笑った。ヤンもつられて笑う。笑いながら、読みかけの本もバッグに詰めた。
「読む暇、あるか?」
「あるかもしれないじゃないか」
ヤンは大真面目だ。
「ほんとに本の虫だな」
ラップは余計に噴き出した。ひとしきり笑うと、ラップは少し真剣な顔になって、
「実際、どれくらい大変なんだろうな」
と独りごちるようにつぶやいた。ヤンもつられて真剣な面持ちになる。
「遭難しかけた生徒もいたらしいが、さすがに本当に遭難したどんくさい奴はいなかったって教官が言ってたな」
ということは、本当に道なき道を行くわけでもないのかもしれない。ヤンとラップは心配しているとも期待しているともつかない表情で顔を見合わせた。いくら想像してもしかたがないことではあった。
ジーッと音を立て、ヤンはバッグの口を閉める。
「ときどき思うんだけどさ、ヤン」
「なんだい、ラップ」
「お前は本だけじゃなくて、もっと物とか持っててもいいと思うんだ。くだらないものでも、いらないかもしれないものでも」
ラップの発言の意図がよく読めず、ヤンは少し首をかしげた。ええと、とラップは言葉を探す。
「なんか、いつでもどっかに行ってしまえる、みたいな感じでさ。ときどき心配になるんだ」
出会って半年も経っていない相手にそう言われて、ヤンはぽかんとして「余計なことを言ってしまった」というような顔をして頭をかいているラップを見た。
「誰にもそんなこと言われたことなかったな」
本心からの、本当のことだった。意外すぎてそれ以外に返す言葉がなかった。
「ごめん、変なこと言った」
「いや、いいよ」
戸惑うばかりで嬉しいと思うところまで気が回らなかったが、「ラップは赤の他人でもそこまで心配してくれる奴なのだ」ということはわかった。たしかに、士官学校を――ひいては軍を終の住処にしようなどとはつゆほども思っていないヤンだったが、それが〝どこか行ってしまえる〟ように映るのだろうか。
なんとなく会話も途切れがちになって、お互いにもう寝ようということになった。ベッドの中で、ヤンはほとんど見たことがない雪のことを考えたが、わくわくするというよりも「寒くなければいいのに」と願うばかりで少しも心は躍らなかった。まさか雪の冷たさ、凍えるような寒さが自分に襲いかかってくるとは考えもしなかった。
*****
絶え間なくゴーグルを雪片が叩く。サーモグラフィーで視認しうる限りで、生きている人間の体温を表す赤色はゼロ。ああ、とヤンが息を吐くと、生命の証は白い霧となって漂う。
じっと雪のくぼみの中に身を潜め、何時間が経っただろう。生命維持装置は省電力モードにしてあるから、あと丸一日はもつ。しかし寒い。生命維持装置が電池切れになる前に凍死する可能性をヤンは考えた。ひどく眠かった。それが危険な兆候であると、事前の座学で教えられた――ような気がする。
思えば、なぜ生きてるかも不思議なのだ。隊とはぐれたことに気づいたのが二時間前。それから不用意に歩き回り、滑落して死ぬかもしれなかった。それ以前に、あのヤンの人生を変えた、父を亡くした宇宙船の事故でヤンも死んでいたかもしれなかった。
しかしヤン一人死んだところで、誰の人生がどう変わるだろう。未来に自分がいるために運命を変えられる人間がいるとも思えなかった。変に悲観的になっているのを自覚しながら、思考をやめた瞬間に死ぬかもしれないと思いやめられずにいる。教官にとっては落ちこぼれが一人事故死しただけ。同級生にもろくに顔を覚えられていないだろう。
恐ろしいことに今生への未練はほとんどなかった。士官学校での生活は楽しいかといえば、自分でそうしたいと望んだわけでもなく、仕方がないと諦めさせられるようなことばかりだったし、もっと様々な歴史を知りたい、学びたいと思いこそすれ、それが生への執着になるかといえばそうでもなかった。
ふと、相部屋の少年の顔が脳裏に浮かんだ。気のいい彼は自分が死んだら悲しんでくれるだろうか。不思議なくらい強く、あの温かい笑顔に、ヤンにはいっそ奇妙に思えるお節介に、もう一度触れたいと思った。
急にぽかぽかしてきて、とろりと意識の輪郭が溶け出す。もう自分では自分のかたちをはっきりと描けない。これが死ぬということなのか、とぼんやりと思った。父さんもこんな風に死んだのだろうか。自分もこんな風に死ぬのだろうか。――……。
*****
身体が重い。指一本動かすことさえ億劫だ。なんとかまぶたを引き剥がしてあたりを見回すと、腕からつながっているらしい点滴や自分を覆う白いカーテンが目に入り、そばで居眠りをしているラップの上で視線が止まった。うまく状況が飲み込めず、ラップに話しかけようとしたところでカーテンが開いた。
「目が覚めたかね」
校長のシトレだった。慌てて敬礼しようとしたが、右腕が重くて上がらない。シトレは手を振ってヤンの動きを制した。無理をして動かすなということらしかった。
「あの……おれ……いえ、小官は……」
「行軍訓練で遭難したのだよ。ここは軍病院だ。教官が必死で探してくれてね、後遺症も残らず結構なことだ」
遭難……そう言われてみれば、とても温かいところにいた気がする。凍死する寸前、温かいと感じるとものの本に書いてあったのは本当だったのだ、とヤンは感心した。
「ラップは……」
まだ居眠りをしているラップを横目で見ながらヤンが訊ねると、ああ、とシトレは笑みを浮かべた。
「休みの日にはかならずここに来て、君を見舞っていたんだよ。だがさすがに疲れているらしいな。寝かせておいてやるといい」
「はい……」
「それでは、君が目覚めたのを確認したので私は行くよ。ドクターに話を聞かなくてはならんのでね。ゆっくり休みたまえ」
目だけで礼をしてシトレを見送った。そのカーテンが閉まる音で、ラップは何度か瞬きをした。ぼんやりした目が、ヤンを見るなりきらきらと輝き出す。
「ヤン! 目、覚めたのか!」
「ああ。心配かけてごめん」
手を掴まれ、ぶんぶんと振られた。ラップは本当に嬉しそうで、その様子を見ていると帰ってきてよかったという温かな気持ちになった。ヤンが帰ってこなかったらどれほど落胆したか知れない。もっとも、それをヤンが知ることはできないのだが。
「いつも来てくれてたって」
「ああ、毎日はさすがに無理だったけど」
「どうして……そこまで」
思った通りのことを口にすると、ラップはきょとんとして、なにを当然のことを訊いているのだろうと言いたげな口調で、
「だって、友達じゃないか」
と言った。
友達。ヤンはその単語を口の中で繰り返した。友達。子供の頃、船の中で数ヶ月一緒に遊んだ相手はいたが、同じ年の頃の友達が自分にいるということがとても新鮮で、妙にこそばゆかった。
食べたことのない美味しい食事を味わうように、〝友達〟という響きを楽しんでいると、「この際だから」とラップが急に何かをひらめいたかのように切り出してきた。
「ずっと言いたかったんだけどさ、おれのことファミリーネームじゃなくて、ジャンって呼んでくれないかな」
「なんで?」
「おれの友達はみんなそう呼ぶし、ヤンとジャンって、なんかいいだろ?」
なにがいいのかヤンにはよくわからなかったし、「じゃあお前はおれのことウェンリーとは呼ばないのか」とか言いたいことはあったのだが、まぶしささえ覚える笑顔を見ているとそんな些末なことはどうでもよくなってしまった。
「いいよ、ジャン。これからあらためてよろしく」
「もちろん、ヤン」
こつんとお互いの拳同士をぶつけた。本当に、帰ってきてよかった、どこかここではない遠い場所に行かなくてよかったと、心から思えた。
『green』
明日からの行軍訓練に備えて荷造りするようにと命令された夜だった。読書にあてられる少ない自由時間がつぶれたことに内心文句を言いつつも、明日からは読書どころではないなと思って、ため息をついた。まさか一年目で雪山を歩かされるとは考えてもみなかった。
と、荷造りするヤンの手元を相部屋のラップが覗き込んでくる。
「荷物、少ないな」
「〝手ぶらのヤン〟だからな」
ヤンはそっけなく返した。
ラップは親が送ってくれたセーターも入れているから荷物はパンパンに膨れ上がっている。一方のヤンは支給された最低限のものしか持って行かないから妙に軽い。
「支給品と給料で買った服を合わせてもこんなもんさ」
「ヤンを見てると、おれは案外荷物持ちだったのかと思うよ」
ラップは笑った。ヤンもつられて笑う。笑いながら、読みかけの本もバッグに詰めた。
「読む暇、あるか?」
「あるかもしれないじゃないか」
ヤンは大真面目だ。
「ほんとに本の虫だな」
ラップは余計に噴き出した。ひとしきり笑うと、ラップは少し真剣な顔になって、
「実際、どれくらい大変なんだろうな」
と独りごちるようにつぶやいた。ヤンもつられて真剣な面持ちになる。
「遭難しかけた生徒もいたらしいが、さすがに本当に遭難したどんくさい奴はいなかったって教官が言ってたな」
ということは、本当に道なき道を行くわけでもないのかもしれない。ヤンとラップは心配しているとも期待しているともつかない表情で顔を見合わせた。いくら想像してもしかたがないことではあった。
ジーッと音を立て、ヤンはバッグの口を閉める。
「ときどき思うんだけどさ、ヤン」
「なんだい、ラップ」
「お前は本だけじゃなくて、もっと物とか持っててもいいと思うんだ。くだらないものでも、いらないかもしれないものでも」
ラップの発言の意図がよく読めず、ヤンは少し首をかしげた。ええと、とラップは言葉を探す。
「なんか、いつでもどっかに行ってしまえる、みたいな感じでさ。ときどき心配になるんだ」
出会って半年も経っていない相手にそう言われて、ヤンはぽかんとして「余計なことを言ってしまった」というような顔をして頭をかいているラップを見た。
「誰にもそんなこと言われたことなかったな」
本心からの、本当のことだった。意外すぎてそれ以外に返す言葉がなかった。
「ごめん、変なこと言った」
「いや、いいよ」
戸惑うばかりで嬉しいと思うところまで気が回らなかったが、「ラップは赤の他人でもそこまで心配してくれる奴なのだ」ということはわかった。たしかに、士官学校を――ひいては軍を終の住処にしようなどとはつゆほども思っていないヤンだったが、それが〝どこか行ってしまえる〟ように映るのだろうか。
なんとなく会話も途切れがちになって、お互いにもう寝ようということになった。ベッドの中で、ヤンはほとんど見たことがない雪のことを考えたが、わくわくするというよりも「寒くなければいいのに」と願うばかりで少しも心は躍らなかった。まさか雪の冷たさ、凍えるような寒さが自分に襲いかかってくるとは考えもしなかった。
*****
絶え間なくゴーグルを雪片が叩く。サーモグラフィーで視認しうる限りで、生きている人間の体温を表す赤色はゼロ。ああ、とヤンが息を吐くと、生命の証は白い霧となって漂う。
じっと雪のくぼみの中に身を潜め、何時間が経っただろう。生命維持装置は省電力モードにしてあるから、あと丸一日はもつ。しかし寒い。生命維持装置が電池切れになる前に凍死する可能性をヤンは考えた。ひどく眠かった。それが危険な兆候であると、事前の座学で教えられた――ような気がする。
思えば、なぜ生きてるかも不思議なのだ。隊とはぐれたことに気づいたのが二時間前。それから不用意に歩き回り、滑落して死ぬかもしれなかった。それ以前に、あのヤンの人生を変えた、父を亡くした宇宙船の事故でヤンも死んでいたかもしれなかった。
しかしヤン一人死んだところで、誰の人生がどう変わるだろう。未来に自分がいるために運命を変えられる人間がいるとも思えなかった。変に悲観的になっているのを自覚しながら、思考をやめた瞬間に死ぬかもしれないと思いやめられずにいる。教官にとっては落ちこぼれが一人事故死しただけ。同級生にもろくに顔を覚えられていないだろう。
恐ろしいことに今生への未練はほとんどなかった。士官学校での生活は楽しいかといえば、自分でそうしたいと望んだわけでもなく、仕方がないと諦めさせられるようなことばかりだったし、もっと様々な歴史を知りたい、学びたいと思いこそすれ、それが生への執着になるかといえばそうでもなかった。
ふと、相部屋の少年の顔が脳裏に浮かんだ。気のいい彼は自分が死んだら悲しんでくれるだろうか。不思議なくらい強く、あの温かい笑顔に、ヤンにはいっそ奇妙に思えるお節介に、もう一度触れたいと思った。
急にぽかぽかしてきて、とろりと意識の輪郭が溶け出す。もう自分では自分のかたちをはっきりと描けない。これが死ぬということなのか、とぼんやりと思った。父さんもこんな風に死んだのだろうか。自分もこんな風に死ぬのだろうか。――……。
*****
身体が重い。指一本動かすことさえ億劫だ。なんとかまぶたを引き剥がしてあたりを見回すと、腕からつながっているらしい点滴や自分を覆う白いカーテンが目に入り、そばで居眠りをしているラップの上で視線が止まった。うまく状況が飲み込めず、ラップに話しかけようとしたところでカーテンが開いた。
「目が覚めたかね」
校長のシトレだった。慌てて敬礼しようとしたが、右腕が重くて上がらない。シトレは手を振ってヤンの動きを制した。無理をして動かすなということらしかった。
「あの……おれ……いえ、小官は……」
「行軍訓練で遭難したのだよ。ここは軍病院だ。教官が必死で探してくれてね、後遺症も残らず結構なことだ」
遭難……そう言われてみれば、とても温かいところにいた気がする。凍死する寸前、温かいと感じるとものの本に書いてあったのは本当だったのだ、とヤンは感心した。
「ラップは……」
まだ居眠りをしているラップを横目で見ながらヤンが訊ねると、ああ、とシトレは笑みを浮かべた。
「休みの日にはかならずここに来て、君を見舞っていたんだよ。だがさすがに疲れているらしいな。寝かせておいてやるといい」
「はい……」
「それでは、君が目覚めたのを確認したので私は行くよ。ドクターに話を聞かなくてはならんのでね。ゆっくり休みたまえ」
目だけで礼をしてシトレを見送った。そのカーテンが閉まる音で、ラップは何度か瞬きをした。ぼんやりした目が、ヤンを見るなりきらきらと輝き出す。
「ヤン! 目、覚めたのか!」
「ああ。心配かけてごめん」
手を掴まれ、ぶんぶんと振られた。ラップは本当に嬉しそうで、その様子を見ていると帰ってきてよかったという温かな気持ちになった。ヤンが帰ってこなかったらどれほど落胆したか知れない。もっとも、それをヤンが知ることはできないのだが。
「いつも来てくれてたって」
「ああ、毎日はさすがに無理だったけど」
「どうして……そこまで」
思った通りのことを口にすると、ラップはきょとんとして、なにを当然のことを訊いているのだろうと言いたげな口調で、
「だって、友達じゃないか」
と言った。
友達。ヤンはその単語を口の中で繰り返した。友達。子供の頃、船の中で数ヶ月一緒に遊んだ相手はいたが、同じ年の頃の友達が自分にいるということがとても新鮮で、妙にこそばゆかった。
食べたことのない美味しい食事を味わうように、〝友達〟という響きを楽しんでいると、「この際だから」とラップが急に何かをひらめいたかのように切り出してきた。
「ずっと言いたかったんだけどさ、おれのことファミリーネームじゃなくて、ジャンって呼んでくれないかな」
「なんで?」
「おれの友達はみんなそう呼ぶし、ヤンとジャンって、なんかいいだろ?」
なにがいいのかヤンにはよくわからなかったし、「じゃあお前はおれのことウェンリーとは呼ばないのか」とか言いたいことはあったのだが、まぶしささえ覚える笑顔を見ているとそんな些末なことはどうでもよくなってしまった。
「いいよ、ジャン。これからあらためてよろしく」
「もちろん、ヤン」
こつんとお互いの拳同士をぶつけた。本当に、帰ってきてよかった、どこかここではない遠い場所に行かなくてよかったと、心から思えた。
『green』
夜の自由時間、街の図書館で借りた本を読んでいると、ラップに声をかけられた。
「なあ、週末空いてるか?」
「空いてるけど」
よかった、とラップが胸をなで下ろす。
「なにかあるのか?」
「いや、ジェシカが買い物に行きたいって言っててさ。荷物持ちがもう一人いると助かるんだが」
「おれは荷物持ちか……」
「気を悪くしたなら謝るよ。だけどジェシカもお前のことが気に入ったみたいなんだ。もうすぐテストで買い物どころじゃなくなるし、どうだ?」
ヤンは少し考えた。ラップが外出するのなら、自分は部屋で一日中本を読んでいるか寝ているだろう。たしか先週もそうやって過ごしていた。珍しく、たまには外に出て新鮮な空気を吸うのも悪くないと思った。
「いいぜ」
「そうこなくっちゃな」
ラップが小さくガッツポーズする。それが微笑ましい。
約束の日はあっという間に来た。士官学校で支給されたシャツとズボンを身につけ、さすがに軍帽は置いていったほうがいいかと考えるヤンに、水色のコットンシャツを着たラップが「まさか、まだ私服買ってなかったのか?」と訊ねてくる。
「それが、支給された金は全部本に使っちゃって」
ラップは額に手を当てて頭を振った。さすがのヤンでもラップが呆れ果てているだろうことはわかる。
「貸してやるから、今日服を買おう」
「いや、今度でいいよ」
「そう言ってると、お前はいつまでもその服のままだろう。着たきりヤンって呼ばれたくないだろ?」
ヤンはきょとんとした。
「別にいいけど」
「おれがよくないんだ!」
そんなことを言いつつ部屋を出て、外出の手続きを済ませて街へ出るバスに乗った。ラップは前に会ったカフェを待ち合わせ場所にしていたらしく、着いてみるとペパーミントグリーンのワンピースに身を包んだジェシカがすでに席に座っていた。
「二人とも、遅い!」
形の良い眉をつり上げるジェシカに、ラップが謝る。
「ごめん、ちょっと出がけにいろいろあってさ」
「いろいろってなに? ていうか、ヤン、あなたこないだ会ったときと同じ格好じゃない! 私服買ったらどうってあれほど言ったのに!」
「いやあ、はは……」
ヤンは頭をかいてなんとかこの場をごまかせないかと考えていたが、ジェシカの追求は逃れられそうになかった。
「今日は私の服しか買わないでおこうって思ってたけど気が変わったわ。ヤンの服を買いましょう」
「だから、いいって」
「私がよくないの!」
どこかで聞いたようなことを言われて、やれやれとヤンはため息をついた。横でラップが苦笑いしている。
三人で連れ立って街を歩く。街路樹は真新しい緑色で、暑くも寒くもなく、友達二人と遊びに行くには格好の日であるように思われた。部屋で本を読みふけるというのもそれはそれでヤンにとっては魅力的な休日の過ごし方なのだが、こういう日もあっていいかと、いやでも機嫌が良くなる。
けれどそんな鼻歌でも歌いたい気分は断ち切られた。ラップとジェシカが足を止めたのは、カジュアルな服を売っている店の前だった。
「ここなんかいいんじゃない? 無難だし、ヤンにも似合うと思うの」
「悪くないんじゃないか?」
そっとその場を去ろうとしたら二人分の手に掴まれて店の中へ連れて行かれた。
ヤンがぼんやりしている間に、ジェシカがシャツやらズボンやら持ってきて「これ着てみて」と言ってくる。派手なオレンジのシャツを着せられて二人の爆笑を買ったかと思えば、ネイビーのシャツは「けっこういけるんじゃない?」という評価をもらったりした。着せ替え人形ってこんな気持ちなんだろうか、とヤンは真剣に考えてしまう。
結局、シャツ三枚とズボン二本を買うことになった。「次の支給日には返せよ」とラップが会計を済ませる。ジェシカが「せっかくだから着替えてきたら?」と有無を言わさずヤンを試着室のほうへ向かせるので、店員に承諾をとって、さきほど評価がよかったネイビーのシャツとベージュのチノパンツに着替えてきた。元の服は紙袋のなかに入れておいた。
なんだかひどく疲れてしまった。しかし一人で帰るとも言い出せず、ラップとジェシカの少し後ろを歩いた。
幼なじみというだけあっていかにも親しそうな二人は、透明な太陽の光に照らされて似合いのカップルに見えた。けれどその想像はなぜかヤンの胸に疼くような痛みをもたらし、ヤンを不思議がらせた。
その後ジェシカの服を買いに、かわいらしい服が並ぶ店に入った。ジェシカが目当ての商品を探しているとき、「女の子ってどうしてこう服を選ぶのにあんなに時間がかかるんだろうな?」とこっそりラップが耳打ちしてきて、二人ですこし笑った。
「ねえ、これとこれ、どっちがかわいい?」
桃色のブラウスとラベンダー色のサマーニット、どちらがかわいいかと言われても、ヤンには「どっちもかわいい」という結論にしかならない。しかしラップは心得たもので、
「こっちのほうが似合うんじゃないか?」
とラベンダー色のほうを指さした。
「そう? ねえ、ヤンはどう思う?」
「え、えっと」
どうかこっちに矛先が向きませんようにと祈っていたから、すこし言葉がつっかえてしまった。
「どっちも、あんまり変わらないんじゃないかな……」
「もう! 全然違うじゃない! ヤンったらどこに目をつけてるのかしら」
とはいえ、ジェシカが本気で怒っているわけではないことくらいはわかる。結局悩みに悩んだ末にジェシカはラベンダー色のサマーニットと、白いスカートを買ったようだった。
「なんだ、荷物持ちがいるほどじゃなかったな」
ついヤンがそう漏らすと、ジェシカは「そんなこと言って!」とラップに怒りだした。
「あはは、ごめんごめん」
「あのときはニューイヤーセールだったの!」
ずっと同年代の友達がいなかったヤンにとってはラップとジェシカのやりとりひとつひとつが新鮮で、慣れていたらうんざりしたかもしれない会話も不思議と楽しいものに感じられた。
そうしているうちに話題は自然と「ちょっと疲れたから、どこかのカフェでお茶でもしよう」ということになった。しかし休日の昼間とあってどこも満員のように見え、ようやく見つけたカフェもほとんど席が埋まっていた。
「ヤンは紅茶で、ジェシカはどうする? おれが買ってくるから、二人で席を取っておいてくれないか」
「いいわよ。私も紅茶でいいわ」
「ありがとう、ジャン」
ジェシカと二人で空いている席を探し、偶然四人がけの席が空いていたのでそこに腰かけた。
そういえば、ジェシカと二人きりになるのは、あの初めて会った日以来初めてだった。緊張こそしなかったが、なにを話せばいいものか少し困ってしまう。ジェシカはバッグから携帯端末を取り出してメッセージかなにかを確認しているようだったが、それが終わると再びバッグにしまって、ヤンのをじっと澄んだブルーグリーンの瞳で見つめた。
「ねえ、あなたジャンのこと好き?」
一瞬、なんと答えたらいいか迷った。ジェシカの言う「好き」をどう定義したらいいかわからなかったからだ。
「好きって、どういう……」
ラップのことは好きだ。友達として――だがラップとジェシカを見て感じた胸の痛みはなんだろうか。
「友達として好きかってことよ」
「好きだよ。おれにとっては、初めてできた友達みたいなもんだし」
なぜか、自分の言葉に違和感を覚えた。深く思考してその正体を探ろうとする前に、ジェシカがヤンの言葉に応えた。
「私もジャンのこと好きよ」
それはどういう「好き」だろう。胸の奥がじくじくと痛んでいる――ような気がする。ヤンは黙り込んでしまう。
「お待たせ」
「ありがと、ジャン」
ラップが戻ってきたのは助け船のようなものだった。三人で他愛ない話をした。ジェシカの学校のこと、士官学校の教官の悪口、冬にヤンが遭難しかけた話、いろいろだった。
その時間はとても楽しかったが、喉に骨が引っかかっているように妙な感覚が抜けない。隣に座るラップを見て、なぜだろうと考える。
夕方になってジェシカと別れ、帰りのバスに乗っていても、部屋に戻ってきても答えは見つからなかった。
「なあ、ヤン。今日はどうだった?」
部屋着に着替えていると、ラップがそう聞いてきた。
「楽しかったよ」
その言葉に嘘はなかった。
「そうか、よかった」
ニッとラップが笑う。それを見て、胸の奥にあの痛みが戻ってきた。
疲れていたはずなのに、その日の夜は寝つけなかった。ラップのことが好き、それは友達として――本当にそうだろうか。
ラップの小さないびきを聞きながら、ヤンは天井を見つめた。夜はまだ、長そうだった。