業風

 重いはずの装甲服がその重みを感じさせない。その代わり力加減を間違えば身体はあらぬ距離を跳んでしまうから、注意深く間合いを取った。相対する装甲服のバイザーの向こう側で、ニヤリとシェーンコップが笑うのを見ると、頭の芯で火花が散る。
 ユリアンは重力が0.4Gに設定された部屋で模擬戦闘を行っていた。すでに三連戦。相手はいずれ劣らぬ薔薇の騎士の猛者たちだ。結果は連敗だが、完敗していた以前と比べれば、手応えはある。だがシェーンコップを相手にしては、手応えがどうの以前の問題だ。叩きのめされないようにするだけで精一杯なのだ。
 そんな余裕のないユリアンの心を見透かしてか、シェーンコップは挑発をかけてくる。余裕げに手の甲を見せて手招きしてくる右手。ざわ、と髪の毛が逆立つような錯覚に陥る。心臓が激しく脈打ち、耳の傍で鼓動しているようだ。
(いつもそうだ。いつだって、余裕がなくて、焦って、悩んで、惨めなのは、僕のほうなんだ)
 声を上げ、ユリアンはシェーンコップのほうへ突進する。振り下ろした斧はあっけなくいなされ、生まれた大きな隙に蹴りを入れられる。咄嗟に衝撃を逃がす体勢を取るが、強烈なシェーンコップの蹴りは身体の芯を揺さぶった。壁に激突して宙に浮く。一瞬上下がわからなくなるが、フライングボールで養った方向感覚が素早く反応した――来る。しかしその一瞬の空白さえあれば、シェーンコップには十分すぎた。
 斧で床に叩きつけられ、バイザーに生命維持装置を破壊されたことを示す警告が表示される。擬似的にではあっても、自分が死んだのだと思うのは気分が悪い。まして、相手がシェーンコップならなおさらだ。
 バイザーの向こうのシェーンコップは、しかし勝ち誇ったような顔もせず、勝つことが至極当然であるかのような静かな目をしている。それはそうだろう。陸戦の達人が、新兵よりほんの少しマシという程度のこどもとの勝負に、本気になることなどありえない。
 それが、奥歯が鳴るほど悔しかった。

「記念すべき100回目の戦死だな」
 訓練が終わり、更衣室で腫れた筋肉に冷却剤を吹きかけているユリアンに、シェーンコップが人の悪い笑みを浮かべて近づく。
 努めて冷静に、ユリアンは答えた。
「空戦隊の訓練も入れれば200回は下らないですね」
 フ、とシェーンコップは吐息だけで笑う。
「なに。訓練では何千回でも死ねるが、実戦では一回しか死ねないからな。……しかし坊や、今日はいくらなんでも死に急ぎすぎだ」
 ぎくり、とユリアンはここ数ヶ月でいくらか厚みの増した肩を震わせた。シェーンコップはより低さを増した声で続ける。
「“気持ち”はわかるが、敵がお前の心情まで慮ってくれるほど、思いやりのある連中とは思わないことだ」
 ブラウングレーの瞳に、恐ろしいほど鋭利な光が宿っている。
(この人は、僕があそこにいたことを知っているのだ)
 そう確信した瞬間、顔が火のように熱くなる。それは自らの至らなさへの恥ずかしさか、わかっていてこちらの想いを踏みにじってくることへの怒りか、それらを綯い交ぜにして生まれた惨めさか。
「……はい。肝に銘じておきます」
 震える声でそう答えるのが精一杯だった。
 シェーンコップはそれ以上はなにも言わなかった。たかだかこども相手に、それ以上釘を刺すこともないと思ったのだろうか。
 部屋には誰もいなかった。勢いに任せて自分のロッカーを蹴り飛ばそうと思ったが、やめた。そんな幼稚なことをしてなにになるというのだ。それに備品を壊せばヤンのもとにもその話は伝わるだろう。ユリアンがなにかよくないことをしたときに見せる、ヤンの困ったような顔を思い出すと、なにもできなくなってしまうのだ。
 ただヤンを、彼を害そうとするありとあらゆるものから守りたいだけなのに、それだけのことがあまりにも遠い。幾度となく、シェーンコップを始めとする戦士たちに叩きのめされた。
 ならば、ヤンを本当に守れるようになるまでの間、せめて心だけでも近くにと願うが、ヤンの心はどこまでも澄んでいるように見えて、暗闇で鏡を覗きこむように、その実なにもわかりはしない。そう、ヤン・ウェンリーのことなど、本当はなにもわかっていないのだ。
 脳裏に、陶然とした表情でシェーンコップからの口づけを受けるヤンの姿が浮かぶ。普段の穏やかな、超然とした態度など影も形もなく、頬を紅く染めて、顎を濡らして、細められた黒い瞳は焦点を結ばず陽炎のように揺れていた。はだけたシャツの襟元から覗く、首筋から鎖骨にかけての肌が、汗を帯びて柔らかく光っているようにさえ見えた。
 ヤンの寝室のドアの隙間から、偶然見えてしまったその光景が、頭から離れない。
 肉欲とはもっとも遠いところにいると思っていた人の生々しい姿に、失望したのだろうか。いや、違う。
 なぜ、その姿を見せる相手が、自分じゃないのかと思ったのだ。
 不吉に地を這う、竜巻のような激情。
 まっとうな無力感が、真摯な敬愛が、ただそばにいさせてほしいというささやかな願いが、紙切れのように吹き飛ばされていく。自分がバラバラになっていくような感覚に恐ろしくなって、ユリアンは自分の身体を抱いてうずくまった。
 ごうごうと、耳鳴りのように吹き荒ぶ風の音は、長い間止むことはない。




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151222 修正
イトウ様リクエスト
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