※生存IFですが、ヤンが幼児退行しています。ご注意ください。
病室のドアの向こうから、調子のはずれた歌がかすかに聞こえてくる。その歌詞の意味をユリアンは知らない。遠い昔に失われた言語。言葉としての意味が消失してもなお、“歌”として残り続ける旋律。
「楽しそうですね」
部屋に入ってきたユリアンの姿を見つけると、ヤンは歌うのをやめてベッドから飛び起きた。
「とうさん!」
「ほら、危ないですよ」
抱きついて来ようとするのを、片手で止める。もう片方の手には、なみなみと湯の入ったティーポットがあった。それを見て、ヤンは少し後ずさった。以前に一度、勢い余って湯で火傷したことがあったから、その記憶が蘇ってきたのだろう。痛みを伴う記憶は、想起されやすい。
けれど、ヤン・ウェンリーの、失われてしまった二十三年間の記憶は、たとえそれがどんな痛みに縁取られていたとしても、二度と思い出されることはない。
千切れた腕をもう一度繋げ直すことも不可能ではない。義肢技術は長い長い戦争の時代の間に飛躍的に発展した。しかし、酸欠で損傷した脳細胞をダメージを受ける以前の姿に戻すことは、未だに不可能だった。それでもヤンには未認可の技術も含め、可能な限りの“治療”が施された。彼を、彼の知略を、彼の思想を失うわけにはいかない人々が、それを行った。
取り戻すことができたのは、彼が十歳だった頃にも満たない程度の幼い精神だけだった。
人々は――彼と、個人的にごく親しかった人々を除いては――彼を見放した。ヤン・ウェンリーはテロリズムに斃れたものとされた。
ユリアンは人々を憎んだ。英雄の偶像を利用するだけ利用して、あとは見向きもしなくなった、残酷で冷淡で身勝手な民衆を。だがいくら憎悪しても、彼らをないがしろにすることは、ヤンの信条に反していた。だからユリアンはそれに従った。彼らが標榜する民主主義を守るために、命がけで戦い、その手に掴んだわずかな好機を逃すまいともがいてきた。温かい血で手はどうしようもなく汚れてゆき、その間に憎悪はかすれ、今ではただ重い疲労感となって両肩にのしかかっている。
戸棚からティーカップを取り出し、慣れた手つきで紅茶を淹れるユリアンの様子を、ヤンは黒い瞳を輝かせて見つめている。幼い好奇心に満ちた瞳。きらきらと光を含んで、銀河のようだ。記憶の中のヤンは、こんな目をしていたことなど一度もなかったと、ユリアンはぼんやりと思う。澄み、深い思慮を湛えていた瞳は、しかしなによりも昏くはなかったか。
「どうしたの?」
気づくと、紅茶はティーカップの縁からこぼれそうになっていた。
「なんでもないですよ」
強張った頬を笑顔の形に引っ張り上げる。ヤンはあまり納得がいっていない様子で、「ふうん」と言った。
「とうさん、どこか痛いの?」
「大丈夫、大丈夫ですから」
ジャムの瓶とスプーンを手に取り、木苺のジャムをたっぷりと紅茶の中に落とす。その拍子に、数滴の紅茶があふれて、ティーカップを汚した。
今のヤンは、ブランデーの入った紅茶など飲むことがない。ジャム入りの甘い甘い紅茶をなによりも好んだ。だから、いつの間にか自分用の酒以外を買うことがなくなっていた。その代わりに、ジャムの空き瓶がいくつも増えていく。
「ねえ、とうさんはどうして、ぼくに、なんとか『です』って言うの?」
ヤンはよく「どうして」という言葉を口にした。どうしてぼくはずっとこの部屋にいなきゃいけないの?どうして毎週変な機械を頭にかぶらなきゃならないの?どうして……。
そのたびにユリアンの胸はきりりと痛む。とうの昔に変声した大人の声で、けれど口調は幼い子どものそれで、至極当然の疑問を口にされると、なんと答えればいいのかわからなくなる。
結局のところ、ユリアンはいまだに、目の前にいる人物が、ある朝病室に入ったら、以前のままの穏やかな様子で、「ユリアン」と呼んでくれることを期待しているのだ。たとえ、もう記憶が回復する見込みがないと医師に言われても、その望みを拭い去ることはできなかった。だがそれは同時に、この、目の前にいるヤンへの裏切りではないのか。
頭が重い。耳鳴りがする。
ヤンがじっとこちらを見つめているのがわかる。顔を上げると、その瞳とまともに視線があった。他人と目を合わせることに、なんのためらいもない、そのいとけなさ。かつてのヤンにはなかったもの。
「……じゃあ、どう呼んでほしい?」
「ウェンリーって呼んで。『提督』なんて人、ぼくは知らない」
ヤンの口から否定されて、地面が少し揺れたような気がした。覚悟はしていたはずなのに、いざそれを耳にすると、衝撃は小さくなく、不快な動揺が肋骨の内側で蠢く。
ユリアンはためらった。ヤンのことを、一度もファーストネームで呼んだことはなかった。幕僚たちはもちろんのこと、ヤンの妻のはずのフレデリカすら、そう呼ぶところを聞いたことがない。「ウェンリー」という名前で呼ぶことは、ヤンの心に踏み入る、遠くて、しかも決定的な一線だと思えた。けれども、今言わなければ、ヤンはひどく悲しむだろう。だから、重い唇を無理矢理開けた。
「……ウェンリー」
「なあに、とうさん?」
ヤンがぱっと顔をほころばせる。本当に、今のヤンの表情はめまぐるしく変わる。ユリアンの知らない顔を、次々と見せてくる。そのたびにユリアンは戸惑い、傷つき、しかしかすかな喜びを覚える。
その場違いな喜びに戸惑っていると、ヤンが身を乗り出してきた。
「とうさん、もう一回呼んで。ねえ、呼んで」
「ウェンリー?」
ヤンは今にも踊り出しそうだ。
その心底喜んでいるような、無邪気な様子に、はたと思い当たる。
「……寂しかった?」
黒い髪が、額から目のあたりまで覆う。俯いたヤンが、小さな声で答える。
「……。……すこし」
なぜ今まで想像できなかったのか、自分の察しの悪さを呪いたくなった。
きっと“少し”ではなかったのだろう。記憶は混乱し、今自分が置かれている状況も理解できない。最初に目に映ったユリアンの姿を、実際の記憶とはかけ離れているにもかかわらず、父親と誤認した。その“父親”に、理由もわからずよそよそしい態度を取られてきたのだ。寂しくないはずがない。肉親に心を理解してもらえない辛さは、自分がよく理解していたというのに。
そこから救ってくれたのも、ヤン・ウェンリーだというのに。
けれどそのヤン・ウェンリーは喪われてしまった。永遠に。残されたのは、器としての肉体と、そこを満たす、ユリアンの知らないヤン・ウェンリー。
ユリアンの虚を突いて、突然ヤンがユリアンに抱きついてきた。黒く豊かな髪からは、清潔な石鹸の匂いがした。
「大好きだよ、とうさん」
なんと答えていいか、わからなかった。
「大好き……とうさんは、ぼくのこと、好き?」
一瞬、息ができなくなった。
「好き」という言葉を、ヤンは口にしなかった。大事だとか、頼りにしているとか、そういう言葉で、好意を表した。感情を直に剥き出しにすることを、必死に避けているかのように。
そしてきっと、ヤンが迂遠な表現であらわしていた「好き」と、ユリアンが言えなかった「好き」との間には、絶望的な隔たりがあったのだ。
ユリアンは震える腕で、ヤンを抱きしめ返した。
「好きだよ。僕は、ウェンリーのことを、誰よりも愛しているよ」
口にした瞬間、ユリアンの中で、なにかが音を立てた。それが、今までの葛藤が噛み合った音なのか、それとも逆に壊れていく音なのか、ユリアンには、わからなかった。
「ごめんね。寂しい思いをさせてしまったね、ウェンリー。もう、寂しくないよ。これからは、ずっと一緒にいようね」
腕に力を込める。ヤンの身体は痩せて肉が落ち、骨の固さがわかる。けれども、確かに温かかった。
そしてそれは、ユリアンがずっと、ずっと求め続けていたものだった。
「愛してる……」
心の中が、並べ続けていた様々な言葉が、ただ一色に塗りつぶされていく。至ってシンプルで、強力で、理性の対岸にある感情に。
ヤンのためならば、ヤンが笑い、自分に「好き」と言ってくれるためならば、なんの関係もない人々の命を絶つことも、自分のそれすら捨てることも厭わないだろう、と思った。
たとえそれが、かつてのヤンがもっとも嫌ったことだとしても、もう二人はそれを理解することができない。
ユリアンの瞳に、ヤンが笑う姿が映る。
ヤンの瞳に、ユリアンが目を細める姿が映る。
それは他者の入ることのできない、終わりのない世界のかたち。どこにもない世界のかたち。
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151212 修正