人魚姫

 その日、官舎に帰って一番最初にしたことは、パーティーでは決して供されなかったような安酒を煽るように飲んだことだった。様々な種類のアルコールが、意識を朦朧とさせる。礼服も脱がずにソファに倒れ込んだ。
 なんとはなしにソリビジョンの電源を入れる。旅行番組だろうか、地表の九割が海だというリゾート惑星の風景が映った。
 海が青い。それが照明も入れていない部屋にぼんやりと淡い青の縁取りを作る。あるいはそのための番組なのだろうか。ヤンにとっては、どうでもいいことだったが。
 どろどろと沼に浸かってもがいているような意識の中、遠く、ヴァイオリンの音のように女性のナレーターが童話を読み上げているのが聞こえる。
 人魚姫。一目惚れした王子を救った姫は声と引き替えに二本の脚を手に入れたが、その恋は行き違いの果てに実らなかった。王子を殺すか自害するかの選択を迫られた姫は、自ら海に身を投げ泡と消える。古代地球時代からの、古典だ。
 自分が選ばれないだろうことは、なんとなく予感していた。それでも実際に白いドレスを着たあの女性と並び、心底満たされたような笑顔を浮かべるキャゼルヌの姿を思い出すのは、苦痛だった。
 しかし自分を童話になぞらえて涙するような感傷はヤンには皆無であり、むしろそうして自分に酔うことを軽蔑するくらいではあったが、冷たい笑いにも似て、ただ水をさらさらと手からこぼすような虚しさに満たされていく。
 ――ヤンは海中にいる。細い泡を吐き出しながら、海底へ海底へと沈んでいく。泡にならない――なれないことは自分自身がよく知っていた。最初から自分にはなにもないのだ。空なのだ。あえかな、泡とおなじなのだ。それでも浮かずに沈むのはなぜだろう。次第に、息が苦しくなる。
 ごぼ、と大量の泡を吐いて、胸を掻きむしる。海面は頭上遥かキラキラと煌めくだけで、いくら手を伸ばしても届かない。
 と、ぼこんと音を立てて身体が膨らんだ。腹を中心に、丸く膨張していく。破裂する、と思った瞬間、目を覚ました。粘着く汗で全身は濡れ、息は上がり、朝日が異様に目に染みた。慌てて時計を見る。――六時。まだ勤務時間には早い。ほっと胸を撫で下ろす。
 ずきずきと頭が痛む。鎮痛剤を乱暴に何錠か口に入れて、ぬるいミネラルウォーターとともに飲み込んだ。顔色が悪い理由はなんとでも取り繕えるだろう。キャゼルヌに当てつける気さえ起きなかったし、それ以前に彼は今日は出勤してこない。ヤンがアルコール漬けの夢を見ている間、きっとあの女性と甘い時間を過ごしていたのだろう。
 どうして私ではいけなかったんですか。
 行き場のない、それこそ細い泡のような呪詛が口から漏れる。
 初めて抱かれる相手が貴方じゃなかったから?
 士官学校の後輩で体面があったから?
 同性愛者だと思われるのを避けたから?
 無数の問いが溢れて消える。それでも自分が選ばれなかったのだという事実に変わりはなく、ヤンは乾いた笑いを漏らした。やはり自分は童話などにはなぞらえられない。葛藤はしても、逡巡はしても、短剣を誰に突き立てることもできず、ただ曖昧に笑うだけ。
 しかし。ヤンは直接脳を刺すような光を見て思う。自分が宇宙で還らぬ人となれば、あの人は泣くだろう。泣いてほしい。その涙が海になるまで。その涙で溺れ死ぬまで。
 一瞬の思考の閃きは、しかし汗を拭いたいというごくありふれた欲望にまみれてすぐに消えた。その空想がすこしばかりの未来に現実となることを知らぬまま。




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