夜の散歩

 枕元の時計は深夜一時を指している。キャゼルヌはできるだけ静かにベッドから抜け出し、ラフな私服に着替える。簡単な仕掛けの引き出しの隠し場所から白い錠剤の詰まった小瓶を取り出し、ジャケットに仕舞って家を出る。いかにも「これからちょっと飲みに行くだけだ」というさりげなさを装って。
 警備の兵はさほど神経質ではない。妻の“毒抜き”が効いたのだろう。ちりちりと胸を刺す罪悪感とともにそれに感謝する。
 星明かりを頼りに歩き、ヤンの家の裏口に回る。そこにぼうと立つひとつの影を見る。
「ヤン」
 音を立てないように傍まで忍び寄ると、とん、と肩にヤンの頭が当たる。そのまましゃがみこませ、茂みの中に身を隠す。
 コートがいるような季節ではないのに、ヤンは厚手の長い上着を羽織っていた。夜目が慣れてきて、かすかな光でもその顔の青白さを感じられるようになった。ヤンの唇はふるえていた。
「寒いんです」
 そう言って、自分の身を守るようにコートを寄せる。
「わかってるんです、おかしいって。でも凍えるように寒い」
 は、は、と吐き出される息は短く浅い。過換気の症状が出始めている。とっさにハンカチを取り出し、ヤンの口を覆い、背中を何度もさすってやる。
「大丈夫だ、ヤン。大丈夫だ」
 小さな子供に言うように何度も繰り返す。落ち着いてきたヤンは顔を上げる。
「私は私が怖い。今日も夢を見たんです。私は大きな翼を持った黒い巨人になって、たくさんの人間を踏みつぶすんです。今でも足の裏に、肉の潰れる、内臓の破裂する、骨の砕ける感触が残っている、ぶちぶちと、ぐちょぐちょと、ごりごりと、そして、私は、それがとても気持ちがよくて、飛ぶんです。もっとたくさん潰すために、もっと、もっと、もっと……」
 ヤンの眼の焦点が合わなくなっていく。小さく叫んで、その肩を揺さぶった。それでも完全に“こちら側”に戻ってきたとは言い難かった。
「先輩……」
 助けて、という言葉は聞こえなかった。ヤンがそれを決して口にしない性分だと言うことも知っていた。けれど全身全霊が助けを求めているように、キャゼルヌには感じられた。
 戦慄。自分はそれを、ヤンが自分に――まさにこの俺に――助けを求めていることを望んでいるのではないか?という疑念が、不吉な一羽の鳥のように脳裏で羽ばたく。それでも今正体を見失い、恐怖のどん底にいるヤンを突き放せるほど、キャゼルヌは情の薄い男ではなかった。それが幸いであれ、不幸であれ。
「ほら、ヤン」
 ジャケットの内ポケットから小瓶を取り出す。それを目の前で見せると、ヤンは泣きそうなほどに安堵の表情を浮かべた。無力感。罪悪感。嫌悪感。胸の中にどす黒い感情が渦を巻いて溜まっていく。
「飲め」
 それは非正規の手段で手に入れた精神安定剤だった。医師の厳しい監督がなければ使用できないほど強いそれを、ヤンは数も気にせず手のひらにあけて、がりがりと噛み砕き、水もなしに嚥下する。苦みも感じていないのだろうかと、キャゼルヌの胸に心地の悪い風がびゅうと吹く。
 何度も、医者に行けと言った。しかしヤンは頑として首を縦に振らなかった。メディアに、政府に、そして妻にさえも「それなりに健康そうな退役軍人」の虚像を作り、そのひずみを一身に引き受けて、壊れていった。
 キャゼルヌは自分のしていることが誤りだと確信している。それでもやめられずにいる。一時でもヤンが安らいだ顔をするから、気がつけば自身もそれに縋っていた。
 ヤンの眼がとろりと融けたようになる。キャゼルヌの胸に頭を預け、深くゆっくりとした呼吸を繰り返す。薬が回ってきたのだ。
「ああ、幸せだ」
 すり、とキャゼルヌの胸に頬をすり寄せる。小さな動物の仔のように。そんなヤンの髪を手で梳いてやると、うれしそうに目を細めた。
「とても、幸せです。幸せ。幸せ。幸せ」
 化学物質がもたらす多幸症の中でヤンはゆらゆらと揺蕩う。そんなヤンを抱きしめて、ともに眠らずにじっと夜を過ごす。
「先輩、星が、星が降ってくる。虹の光を撒いて」
 ヤンが指した指の先には、何の変わりもない夜空が広がっている。だからキャゼルヌは目を閉じる。ヤンの見ているはずのものを自分も見るために。真に見なければいけないものを見ずに済むように。
「ああ、そうだな。綺麗だ」
 瞼の裏にはただ暗闇。それでもキャゼルヌはそう言わずにはいられなかった。
 弱い生きものが二匹、身じろぎもせず夜の散歩をしている。




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