三ヶ月ぶりにヤンの官舎で飲むことになった。それはつまり朝までいることを意味しているのだが――若いキャゼルヌにはそれも十分魅力的であったのだが、気を重くさせてるのは三ヶ月の間にヤンの部屋がどんな状態になったか想像してのことだった。キャゼルヌは空想的想像力には乏しいが、ある情報から結果を推量することは得意なのだ。
だからキャゼルヌはわざわざ時間を前倒しして、日が暮れる前にヤンの部屋を訪れた。
ドアが開いた瞬間、おそらく三ヶ月間存分に微生物の楽園となったであろう生ゴミの臭いが鼻をつく。ウッとたじろぐキャゼルヌを、くたびれたジャージ姿のヤンが出迎えた。
六つ年下の後輩はつい最近正式な士官となったばかりで、今は後方勤務を担当しているが、その働きぶりたるや惨憺たるものだという。さもありなんとキャゼルヌは思う。昔からヤンはサボる隙のあるところでは全身全霊をかけて手を抜く癖があるのだから。それにこの部屋の有様から見て、とても整理分類が得意な人種とは思えないだろう。
机の上にはインスタント食品の容器と空き缶、ソファには脱ぎっぱなしの服や本、床はその両方、本、あるいは広告のたぐいやなにかの包装紙で足の踏み場もない。
いったいお前はどんな生活をしているんだと怒鳴りつけたところ、童顔気味の後輩は気まずそうに笑って黒髪をくしゃくしゃと掻いた。
こうして甘い体験になるはずの時間のかなりの部分は掃除と説教に使われることとなった。キャゼルヌは目についたものを片っ端から手際よく「必要なもの」「不要なもの」「保留」に分けていき、不要なものは容赦なくダストシュートに放り込んだ。それをヤンはぽかんとした表情で見ている。
「ぼさっとするな。お前さんも手伝え」
キャゼルヌが言うと、ヤンは眉をハの字に下げた。
「でも、私が手伝っても、余計事態は混乱するだけかと思うんですが」
「それはそうだ。だがここは俺の部屋じゃない。お前さんの部屋だ。お前さんが管理しなくて誰がする。どうせしばらくは独り者なんだ、整理整頓のコツというのをしっかり見ておけ」
容赦なく浴びせられる毒舌に参るわけでも怒るわけでもなく、「はあ」と気のない返事をして、ヤンはキャゼルヌのそばに座り込んだ。
それから少し経って、出し抜けにヤンが呟いた。
「先輩、爪、短いですね」
ふと手を止めた。ヤンの視線はキャゼルヌがさばいている“物”ではなくキャゼルヌの手をとらえていた。
「当たり前だろう。爪が長いと危険だしなにより不清潔だ」
「そんなものですか」
「そんなものだ」
そう言ってはたと覗きこんだヤンの黒い瞳には、奥でちろちろと燃えるものがあった。
「たまには爪を立てて、引っかいてほしいなあ」
ヤンの思考はキャゼルヌのそれとは全く別々のところ同士が結線し、またキャゼルヌが「つながっていて当たり前」だと思っている箇所が断線していることがある。だからこそ好もしいと感ずるし、危なっかしいと思う。
ヤンは完全に「その気」になってしまったようだった。ふっくりした唇を赤い舌先が舐めるその様子はキャゼルヌの脳を強かに打つものではあったが、未だ片づかぬゴミの山を前に事に及ぶ気にはなれなかったので、
「傷がついたらまずいだろう」
というような言葉で適当にお茶を濁し、作業を再開した。だから「それもそうですね」と言って微笑んだヤンの目に暗闇のあるのを見落とした。
その日の夜は悲惨だった。
ようやく片づけが終わり、酒を飲みかわすうちに、唇をつけているのはグラスではなくお互いのそれになる。舌を差し入れ、唾液を垂らし、口づけというにはあまりに荒々しい行為をしながら、キャゼルヌの背に回されたヤンの手はシャツをまくりあげ、後方勤務ながらも締まった手触りのよい背中に触れると、両手の爪を立てて思い切り引っ掻いた。
がりがりがりがり。
音にすればまさにそのような遠慮のなさだった。痛みに驚いて顔を上げると、ヤンが悲しそうに笑っていた。それを見ると、喉にまできていた怒りの言葉が砂の崩れるように引いていった。
しかしそれからはセックスどころではなく(なにせ汗がしみて悶えるほど痛むのだ)、傷をつけた張本人に不器用な手つきで傷薬を塗られる羽目になった。どうしてこんなことをしたんだ、俺がなにか怒らせるようなことを言ったかと尋ねると、ヤンは困ったように言った。
「先輩が優しくて優しくてたまらなかったから……」
その言葉の意味もわからず、結局その晩は共寝も気まずくなって早々に帰宅し酒を飲んで一人でベッドに横になった。いったいヤンはなにを考えていたのだろうかと、複雑な計算式を解くような心構えで考えてみたものの、さっぱりわからず、そのまま眠りに落ちた。
それから当座の間キャゼルヌは「彼女(推定)を怒らせて背中に見事な傷をつけられた男」としてシャワールームで哀れみと好奇の視線を散々に浴びせられることとなった。しかし傷はすぐに消え、噂も疑問も忙しい日常の中に掻き消えていった。
「爪を立てて」という言葉の真意を彼が知るのは、それからもっと後のこと、ヤンがもはやキャゼルヌの手に余る“怪物”に育ちきってからのことであった――。
120309