終の駅まで

 規則正しい音と振動は眠気を誘うもので、眠りたがりのヤンがそれにあらがえるはずもなく、肩に頭を預けてすうすうと寝息を立てている。
 ほかに乗客はいない。いるのは自分たちだけだ。これは夢の中だとわかっているのに、あるいは夢の中だからこそ、キャゼルヌは自分たちだけが世界から隔絶されたような錯覚を味わっていた。
 今自分たちが乗っているのは「電車」だ。AD時代に人々の主な交通手段だった乗り物。今は映像記録を除けば、貴族か金持ちの道楽でしかその姿を見ることができない。そもそも「電車」にまつわる技術は多くがリニアのそれに取って代わられ失われている。
 がたんがたん、がたんがたん。
 一度も乗ったことがないはずの乗り物の出す、独特のその音を、なぜかとても懐かしいと思った。
 車窓の向こうには海原が見える。鈍色のそれは雲の切れ間から差し込む光をうけてきらきらと輝いている。
「きれいだな」
 誰にともなくつぶやいた。
 そして何気なしに重ねられた左手を握ろうとして――気づく、そこに指輪がないことに。どこにやったのだろうと考え、服の間に挟んでバッグに詰めて荷台に置いてしまったことを思い出し、落ち着いた。それにこれはきっとそのような夢なのだから、あえて指輪は外しておいたのだろう。
 ヤンと個人的な理由で会うときはいつも指輪を外していた。本人に自覚があったかどうかは知らないが、ヤンはキャゼルヌの結婚指輪を見るとき、いっそ透明なほど悲しい目をしていた。それを見るのがやりきれなくて、いつからか彼の前では隠すようになった。ひどい欺瞞だが、それでもその上でなんとか成り立っていた。ヤンはある一線を越えようとはしなかったし、キャゼルヌも安定した運営を好む本能からそれを求めていた。
 果たして正しかったのか。
 電車はトンネルに入り、ゴーッという音が重なる。そのとき、ヤンが何事か呟いたようにも聞こえたが、ぼうっとしている間に問いかける機会を失ってしまった。「よだれは垂らすなよ」と軽口を叩いた、それだけ。
 再び、海が広がる。
 がたんがたん、がたんがたん。
 電車の揺れる音以外は、恐ろしく静かだった。風景にも驚くほど変化がなく、凪いだ海が車窓にぺっとりと張り付いているようにも見える。本当にこの電車は前に進んでいるのだろうかと訝るほどだった。
 と、ヤンの首ががくんと揺れた。いくらなんでも寝過ぎだろうと茶化してやろうとして浮かべた笑みが、凍る。
 黄みがかった象牙色の頬に血の色はなく、唇は白く、手は冷たい――ただ、座席に染み付いた夥しい量の血だけが温かい。
 唐突にアナウンスが響く。
『次はー終点ー、終点ー、《6月1日では遅すぎる》』
 痙攣するように目を覚ました。背中となく額となくびっしりと冷たい汗が張り付き、落ちた汗が書類に染みを作った。どうせ不要な書類だったので丸めて捨てた。息が苦しい。見えない腕に首を絞められているようだった。
 どうかなさいましたか、と副官が尋ねたので、うたた寝したらひどい夢を見た、とだけ答えておいた。副官の方も慣れたもので、明らかに神経がささくれだっている上官にそれ以上なにか聞こうとはしなかった。
 気付けに濃いコーヒーでも飲もうと、自ら給湯室まで足を運び、カップを手に取り――それを床に叩きつけたいという衝動に駆られそうになって、寸前のところでこらえた。
 人生の終わりの地点まで共に歩こうと誓った女性がいて、それは今でも変わらない。では、ヤンは?恋人としてすべきことはひと通りやった。身体を重ねて、睦言を紡いで、――しかしはっきりと想いを告げたことはない。その一言で全てが壊れていくのが怖かった。リスクを恐れずに口にできるほど、お互いもはや若くもなかったし、背負っているものが大きすぎた。
 しかし――とキャゼルヌは思う。自分に向けた憤怒、後悔、怨嗟、ありとあらゆる負の感情をもって。
 言うべきだったのだ。すべてを壊しても、なにもかも失っても、「愛してる」と告げるべきだったのだ。
 だからあの電車には始発もなく、終点に名前もなく、風景は永遠に変わることがない。始まりがなければ終わりもないように。しかし終“点”だけははっきりと存在する。死別という形で。
 もう一度、一緒に乗ってくれ。次は山へ行こう。川へ行こう。どこでもいいから、もう一度。
 キャゼルヌのそんな独言は、しかし呻きに混じり言葉の体をなさなかった。




130220
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