Another chance

 リハビリテーションルームの隅のソファに身を沈めるように座り、ヤンはびっしりと額に汗を浮かせて肩で息をしている。三年間の昏睡による筋力の著しい低下と、片脚の切断・義肢の装着は、彼のもともと軍人にしては乏しかった体力を徹底的に削いだ。それを改善するためのリハビリだったが、生来面倒くさがりのヤンには苦痛で仕方ない。しかし新政府の運営で多忙を極める妻や養子に負担をかけるのもヤンの性に合わず、結局こうして文句を垂れながらもリハビリに勤しんでいる。
 ヤンは正式に軍を退役した。政治にも一切口を挟まないと、フレデリカやユリアンとも約束した。あの暗殺未遂事件や、その後の戦いで慣れ親しんだ部下を多く失い、疲れ果てていたし、軍というシステムと本当に手を切るべきだと心底思ったからだった。そして待ち望んだ安穏とした年金生活が訪れた。
 では、これからどうやって生きる。時折そんな問いがヤンの胸に去来する。虚しさと、途方も無い疲労感と共に。自然、重い溜息が漏れる。
 と、いきなり頬に冷たく濡れたものを感じて飛び上がりそうになった。アッテンボローが悪戯っぽい笑みを浮かべて、水筒を持ってヤンのすぐ傍に立っていた。
「これ、キャゼルヌ夫人からの差し入れです」
 口に含んでみると、薄めに味付けされたレモネードだった。疲れた身体には心地いい。
「ありがとう」
「俺にはこれくらいしかできませんから」
 アッテンボローもヤンと同じく軍を退役していた。あの戦いの日々のことを執筆するのだと息巻いているが、未だに完成したものを見たことがない。こうして足繁くヤンのもとに来ては世間話をしたり、リハビリの手伝いをしては帰っていく。
 ヤンはレモネードを飲むのに集中していて、アッテンボローが一瞬深く憂いを含んだ眼差しで彼を見たことに気付かなかった。
「先輩、ちょっと外の空気吸いに行きませんか」
「え?外に?」
「気分転換、ですよ」
 アッテンボローはぱっと駆け出すと、ヤンの上着を車椅子にかけて引いてきた。正直この寒くなってきた季節に外に出るのは気が進まなかったが、アッテンボローの懐っこい笑みを見ているとそれもいいかと思えてきた。
 中庭に出る。すでに紅葉は終わりつつあった。冷たい風に吹かれると、生身の体と義足の接続部がしくしくと痛んだ。それでも病院の中と違い空気は澄んでいて、胸がすっとするようだった。
「こないだは真っ赤だったんだけどな」
 明らかに気落ちした様子でアッテンボローは言う。手を伸ばし、その肩をつつく。
「有終の美というのもあるものさ」
 ふ、と自嘲。
「無為に生き延びる私には、縁遠い言葉だけどね」
 その時、ぎょっとするほど強い力で肩を掴まれた。
「貴方がそれを言ってしまってはいけない」
 ヤンの肩を掴む手が震えだす。
「無為、だなんて、言わないでくださいよ。貴方のために死んでいった皆はどうなるんですか。貴方のためを思っている人はどうなるんですか。貴方のために生きている俺は……」
 はっとして、アッテンボローはまくし立てるのをやめた。ヤンも、虚を突かれてぽかんとせずにはいられなかった。
「…………アッテンボロー」
 うろたえるアッテンボローの頬に指先で触れる。
「うん、私はずっと、お前の気持ちを、見て見ぬふりをしてきたんだ……」
 すまなかった。そう言うが早いか、アッテンボローが抱きついてきた。車椅子が軋む。
「こ、こら、倒れるだろ」
 と、抱き上げられて、ヤンもアッテンボローに抱きつく形になった。まだ不慣れな義足で足が痛まないよう、地面から数センチ浮かせて。退役したのに大した腕力だ、と場違いな思考がよぎる。それもこれも、突然の展開についていけないせいだった。
「いいんです、いいんです、先輩」
 アッテンボローは今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
「そう思ってくれるだけで、俺はもう、満足なんです」
「無欲というか、いい子すぎるんだよ、お前は……」
 ヤンは苦笑して、「それに甘えてきたのは私の方なんだけどね」とつぶやいた。そう、散々に甘えてきた。肌が寂しいとき、心に隙間風が吹くとき。アッテンボローは決してヤンを拒まなかった。その意味を、ようやくヤンは理解した――理解していたことに、気づいた。
「せ、せんぱ、」
 乾いた唇を塞ぐ。勢い余って倒れそうになるのをこらえて、アッテンボローが強く抱きしめ返す。その腕は強く、温かかった。
「気まずいから次から来ないというのは、なしだよ」
 にやりと、ヤンは笑う。
「そんな半端なこと、しませんよ。リハビリが終わっても、先輩のところへ行き続けますから」
「それは手間だろう。いっそ一緒に住もうか」
 本当ですか、とアッテンボローが目を丸くして、ぱあっと破顔する。
「夢みたいだ」
 楽しげな、幸せそうな、なんのてらいもない笑い声が、きんと澄んだ空に木霊する。ヤンはそれを聞いている。穏やかに、ほほ笑んで。



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