クリサリス

 妙に胸の奥がざわざわと、夜に木立の鳴るようで眠れない。寝返りを打って、シーツに染みついた汗の跡を見る。
 あれ、こんなに暑いのか、今日。
 下着が肌にべっとりと纏わりつく。体の節々に水気が溜まって気持ちが悪い。シャワーでも浴びるかと、起き上がった拍子に頭の奥がキンと痛んで吐き気がした。
 くそ。アッテンボローは悪態をつく。昨日飲んだ安酒が悪かったのか、いやあのくらいの酒ならいつも飲んでいる。それともこの年でアルコールと縁切れか。なんにせよ、一刻も早くこの嫌にねばつく汗を洗い流してしまいたい。
 廊下に出たとき、来訪者を告げる電子の鈴が鳴った。時刻は深夜一時。
『アッテンボロー?』
 憔悴したような声。
 あるいは胸騒ぎのしたのはこのためだったのかもしれないと思って、アッテンボローはドアを解錠した。初夏の湿ったむせ返るような樹々の匂いと共に、ヤンが立っていた。肩や頭がしっとりと濡れている。外は小雨だった。
「ごめん、こんな時間に」
 銃を握ったことがあるのかと思うような細い指が震えている。指だけではない、肩も、唇も、まるで凍えているように。
「どうしても、一人でいられなくて」
 言葉の間、ひゅう、ひゅう、と苦しげに息を吸い込む音がする。
「上がっても……いいかな」
「……散らかってますけど」
 そう言うや、転がるようにヤンが抱きついてくる。
「俺、汗臭いですよ」
「そんなの、かまわないよ」
 震える腕が背中に回され、痛いほどに締め付けられる。その腕が本当は自分ではない人間を求めていることを、アッテンボローは知っている。けれどもそれを拒めたことは、ただの一度だってないのだ。
 たとえ不毛な理由からであっても、ヤンが自分を必要としてくれることが嬉しかった。それで十分満足なんだと、――そう、思っていた。
 換気、しとくんだったな。
 ほとんど正体を失っているヤンを、彼が求めるままに組み敷きながら、アッテンボローはぼんやりと考えた。大人の男が二人、大量に二酸化炭素を吐き出すから、頭の芯が快楽のためだけではなくくらくらするのだ。
 ぐらりと上体を倒すと、力の加減が変わるのを敏感に感じ取り、ヤンの喉が嬌声を絞り出す。ぬめぬめと、波打つ粘膜がアッテンボローのモノを擦り上げる。今度こそ快感のゆえに目の前がチカチカして、意識が遠のいた。頭の奥で血管がぷちぷちと切れていくような感覚さえ覚えた。
 俺、死ぬかも。男の上で腹上死。ははは。笑えない。クソ親父も姉貴たちも、ぶっ倒れるだろうな。つうかこんな馬鹿なこと考えてるのに、腰だけはガンガン振って、猿かよ、俺。俺たち。
 耳に入ってくるのは、口をぽかんと開けてそのまま発声したらこうなるだろうな、というような、だらしない音。しかしその音の中に、確実に「せんぱい」という言葉が混じっているのを聞く。アッテンボローは悲しいのか怒りなのか、憎悪なのか慈しみなのかもわからずに、唇を歪める。
 このままもしもヤン先輩が死んだら、ヤン先輩の大好きな先輩は、どう思うんだろうな。地団駄踏むかな。嘆き悲しむかな。あっさり諦めたりして。まあ後追いなんかしないよな、あの人。ほんっとうに人間、できてるもんな。不倫してるくせに。美人の奥さんいるくせに。
 ――なんでだよ。アッテンボローは汗に混じって涙を流していた。俺はヤン先輩もキャゼルヌ先輩も好きなんだよ。憎みたくなんかないんだよ。なのに。
「……なんでだよ」
 低く唸るような声にを聞き、はっ、と熱に浮かされていたヤンの瞳に恐怖の色がよぎった。アッテンボローはヤンの枕を握っていたほうの腕をおもむろに掴み、それをねじり上げた。
「なんで憎ませるんだよ、あんたは」
 ぽき、と軽い音がして、筋肉らしい筋肉なんかついてない腕が肩からもげた。ぷらんと宙に浮くそれは人間の付属物じゃない、別のもっと下等な生き物の死体にも見えた。悲鳴はなかった。放り投げると、べちゃりと湿った音を立てて壁に赤黒い跡をつけた。
 うわ、ここ官舎なのに。
 アッテンボローは苛立って、背中にしがみついていたほうの腕も毟りとった。
 両腕を失ったヤンは、髪を額に頬に張り付かせたまま、ぽかんとした表情でアッテンボローを見ていた。それが一秒か、二秒か、あるいはもっと長く続いて――白い歯が見えた。あ、叫ぶんだと思った瞬間、両手でヤンの口を覆って全体重をかけていた。すでにヤンの胎内にあるものは萎えている。もっと昂奮するものを見つけたから。
 ヤンの両足が、必死に振りたくられ、アッテンボローの胴を蹴る。
 痛。あとでこれも取ってしまわないとな。
 そしてツンと鼻を突くアンモニア臭と共に、ヤンの身体は力を失ってぐったりと動かなくなった。アッテンボローはいっそ悠々とした動きでだらりと投げ出された両足をもぎ取り、胴と首だけになってベッドに横たわるヤンの姿を眺めた。思わずため息がもれた。
「すごい、先輩、きれいだ」
 その胸はぺたりと平たいまま。唇は開かれたまま、白い歯がかすかに覗いている。瞳孔の拡散しきった瞳は本当に黒くて、古代人の愛した宝石のようだった。
「はやく、もっときれいにしないと」
 体中にへばりついた体液が放つ臭いは、もはや悪臭といってもいい。アッテンボローは軽々とヤンを抱いて、シャワールームに向かった。と、その前で足を止めた。なにかがいるような気がした。自分以外の、なにかが。大きな、塊?
 そして扉を開け――同じように四肢を失ったヤンが、ころころと、無数の蛹が転がるように、いくつも、転がっているのを見て――――絶叫した。
 シーツには自分の汗が巨大な染みを作っていた。はあ、はあ、と生理的に酸素を求める、その音すら恐怖だった。その間にも鼻の先から顎の先から汗は雫となって落ちる。震えてシーツを握る指に、まだ、ヤンの手足を毟ったときの、虫の脚を千切るような、不気味な、しかし小気味良い感触が残っているようだった。
 だから真っ先に手を洗った。しかし洗っても洗ってもあの感覚言いようのない感触が指先から落ちない。やがて手が赤く擦れ、ひりひりと痛み出す。
 アレは夢だ。必死に自分に言い聞かせる。アレは夢だ。現実じゃない。現実にあんなこと起こるはずがない。現実の俺が、先輩にあんな酷いことするはずがない。現実の――……現実……本当に?
 混乱していた。安い酒を浴びるように飲み、アルコールでおぞましい光景を押し流すようにして、眠りとも気絶ともつかない意識の暗闇にずるずると落ちていった。
 羽化せず死ぬ蛹。手足もなく、うごめくだけで死ぬ生きもの。生きものの、心――ならば、いっそあのままでよかったのかも、しれない。
 そんなことが一瞬だけ脳裡に浮かんで、すぐに闇の中へ立ち消えた。




2013/05/15
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